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12年ぶりにドラゴンクエスト6をプレイして思ったこと

先日、ドラゴンクエスト6(ドラクエ6)を無事クリアすることができた。なぜ今になってドラクエ6に取り組んでいたのか。

そのきっかけは、とある飲み会に参加したときのこと。たわいもない話で盛り上がっていたのだが、そこでのトークテーマのひとつに「人生で2回以上観た映画はあるか」というものがあった。
そこにいたメンバーは、スターウォーズはつい何度も観てしまうと言ったり、トップガンの最新作を1週間で2度観たと言ったりしていた中で、私は特に浮かばなかったのである。

飲み会の帰り道、私は自分の人生の中で2回以上観た映画がないことが妙にひっかかっていた。なんとなく、我ながら人生に深みがないなと思ったのである。そこで、映画以外に、小説や漫画、ゲームなどはないかと記憶を辿った。

「あ、ドラクエ6は何度かやったな…!」

ドラクエ6とは、日本が誇る名作RPGシリーズの6作目で、1995年にスーパーファミコンで発売され、その15年後となる2010年にはニンテンドーDSでリメイクもされている人気ゲームソフトである。

私は覚えている限りで、スーパーファミコン版を少年時代に2回(うち1回は途中でセーブデータが壊れて道半ばで冒険を断念した)、リメイク版を1回プレイしたことがある。

帰宅後、久しぶりにドラクエ6のことを思い出した私は、何気なく検索してみたところ、スマホ版も出ていることを知った。ということで、2,400円とまあまあ高かったが購入することにした。



よく、映画や小説などの名作は、その作品を観る時の年齢によって感じ方が異なり、それがまた名作たる魅力であると言われたりする。そしてドラクエ6もまた、まごうことなき名作である。

少年期、青年期に続いて、社会人歴10年以上のおじさんとなった今だからこそ、ドラクエ6に何かこれまでとは違うものを感じるかもしれない。そんなことを思いながらプレイし始めた。

結論から言うと、感じた印象が大きく変わることはなかった。ただ、物語の随所で少年、青年時代には気づかなかったポイントがあったので、何か一つでも届く方に届いてくれたら嬉しいという心持ちで、以下からグッときたポイントを物語の進行順に書き記したい。なお、各ポイントの物語の各論やキャラクターについての細かな説明は、いちおう未プレイの方々へのネタバレ配慮のため省く。

グッときたポイント1.ターニアに告白をうやむやにされた後のランドの一言

夜空が綺麗なのがまた切ない

主人公と同じ村に住む、友人以上親友以下みたいな存在で、主人公の妹であるターニアのことが好きでしょうがない男、ランド。物語の序盤で、ターニアがその年に16歳になることがわかるのだが、そういうタイミングなこともあり、満を持して村内で最もロマンチックな場所でターニアに結婚を迫る。しかしターニアは、「この世界のことも自分自身のこともよくわからない」という理由でその申し出を渋々断り、その場から立ち去ってしまう。そして残されたランドが夜空に向かってこう呟く。

「自分がなにものかなんて誰にもわかりゃしないんだぜ」

私が少年、青年時代の頃は、この一言がそこまで印象に残った記憶はない。しかし、おじさんになった今になってとても染みてしまった。「ほんとそうだよね…」と。大人になったって結局、自分が何をしたいか、どんな人間になりたいかなんてそれほどハッキリはしないわけで、それをこの歳(ランドは17歳)にて既にわかっているランドの人間としての深さや器のデカさにグッときたのである(しかもターニア本人の前で言わないところがまたいいし、もっと言うとこのシーンがそもそも上の世界、つまり夢の世界なのがまたいい)。

グッときたポイント2.「ラーの鏡」が物語のかなり初期に出てくる

ドラクエシリーズではお馴染みのキーアイテム「ラーの鏡」

これは物語そのものではなく、物語の構成を考えた制作者の方にグッときたのだが、他のドラクエシリーズよりもラーの鏡というキーワードが登場するのが早い。

ラーの鏡とはどのシリーズにおいても真実を映す鏡として登場し、例えば人間に化けて悪事を働くモンスターに鏡を向ければ、その醜い本当の姿がたちまち映し出されるという宝具である。シリーズによって異なるが、「真実を映す」ことはどんな物語においても大きな存在感を持つアイテムのため、登場するのも物語の中盤〜終盤にかけてが比較的多い印象。しかし、ドラクエ6ではキーワードとして出てくるのも、実際に手に入れるのも割と序盤なのである。

この点にグッときた理由を説明する前に、ドラクエ6の大テーマについて簡単に解説しよう。
ドラクエは基本的に、魔物の親玉を選ばれし人間たちが倒すという王道の物語で、ドラクエ6でもそれはそうである。しかし、ドラクエ6の主人公には悪を倒すために「本当の自分を見つけること」が必要で、むしろ本当の自分を見つけることの方が物語の多くを占めてすらいる。
なので、ドラクエ6をポジティブに解釈すれば、物語が多層的で深みがあると言えるし、ネガティブに解釈すれば、話がとっ散らかっててまとまりがないとも言える。ちなみに私は前者の捉え方なのでドラクエ6がシリーズ中で一番好きだし、大人になってからよりドラクエ6のストーリーにグッときている。

そんなドラクエ6と、「真実を映す」というラーの鏡の親和性の高さったらありゃしない。ということで、物語の初期でラーの鏡を登場させることで、ドラクエ6における大きな方向性をプレイヤーに示しているのではないかと感じ、その企みにグッときたのである。
さらに、初期にラーの鏡が手に入るがゆえに、その後の物語の中でも活躍するシーンが他シリーズに比べて多く、「真実を見る、たどり着く」ということの重要性が際立っているのもグッときたポイントである。

ちなみに、話は逸れるが、「盗賊のカギ」や「魔法のカギ」などの「カギ」アイテムが、他シリーズに比べて種類が豊富なのも、新たな世界を開く=まだ見ぬ自分を見つけるというドラクエ6の物語を暗示しているような気がして、勝手に「くぅ〜、作家さんステキ〜」と感慨深くなった。

グッときたポイント3.「しあわせの国」というコンセプト

ネーミングの胡散臭ささえ改善されればこの作戦はあるいは…

物語の中盤に差し掛かったタイミングで主人公たちが訪れることになるのが「しあわせの国」という場所。この場所に行けば働く必要もなく、永遠に遊んで暮らせるという噂で、周辺の村からの移住希望者が絶えないという、まさにしあわせの暮らしを体現したようなスポットだ。
しかし、実態は魔王軍の幹部であるジャミラスという知将による罠で、上記の話は魔物たちが心のスキマを持った人間たちに囁いた真っ赤なウソ。この話に乗っかってしあわせの国に足を運んだが最後、ジャミラスに魂を奪われてしまうのである。

少年時代の私は、「こんな胡散臭い話に引っかかる方が悪い。引っかかった人間はアホだな〜」くらいにしか思っていなかったが、大人になった今、このジャミラスの戦略に恐れ慄いている。

このしあわせの国大作戦にどハマりしたのは血気盛んな若者や、一見冷静に物事を判断できているっぽい大人が多く、周辺の村に残っているのはシニア層や幼い子供がいる母親などが目立つ。残っているシニア層の中には、そのカラクリにそれとなく気づいていそうな人間もいるが、本音はしあわせの国に行きたいが体力的に行けないという人間も割といる。

しあわせの国はあくまで物語の話なので、胡散臭さが誇張されて描かれているが、この戦略の構造そのものは正直、まさに私たちが生きている現代社会のあり方とそう変わらないのでは…?そんなことをふと思い、グッときたというかゾッとしたのである。
特に心に残ったのが、ジャミラスを撃破して奪われた魂も戻ってきたあとの村民の一言。

この断定口調がなんとも人間の危うさを物語っている

このセリフは、昨今の消費社会にどっぷりハマっている私に刺さりまくり、自分もこの村の人間だったらきっと、「先行者利益ゲットだ!」とか言ってまんまとしあわせの国に行っちゃうだろうな…としみじみ感じたのだった。

このセリフの重みにかつての自分は気づかなかった。
知性に基づくカリスマ性で部下からの信頼も厚い。惜しむらくは戦闘力がそれほど高くなかったことだが、戦闘力が低いがゆえにこのスキームにたどり着けたのかもしれない


グッときたポイント4.常に急ぎ、効率を求めるテリー

テリーがかっこいいのは主に物語の序盤である
強くなりたいという明確過ぎる目標のためにあくせく冒険する最強の剣士、テリー

主人公たちの旅路の途中にちょこちょこ顔を出してきては、いけすかない言葉を吐いてプレイヤーをモヤモヤさせたかと思えば、最終的に魔族の道に堕ちる悲劇の剣士、テリー。そのドラマチックな人生っぷりや、最終的には愛らしく思えるそのキャラクターから、ドラクエ6の中でも屈指の人気を集めている。
そんなテリーに対して、これまたグッときたというわけではないのだが考えさせられたのは、見出しに書いたようにいつも急ぎ、そして効率を重視しているように思えたことである。

テリーはドラクエ6のキャラクターの中において、「強くなりたい」という非常に明確な目標を持ち、それに向かってひたむきに突き進む、ある意味とても主人公らしい人物である。しかも、強くなりたい理由が、幼い頃に自分の弱さゆえに(実際はそれが決定的な理由でもないのだが、テリー本人はそう思っている)姉と生き別れになったからという、まさに悲劇のヒーローたるものであり、このバックグラウンドも人気たる所以だ。

確固たる目標を持ち、それをスピーディーに達成するために、寝る間も惜しみ、効率を重視して日々活動する。

こうして書くとまるで優秀なビジネスマンの働き方のようで、別に間違ってるとも思わない。しかし、物語ではその行き過ぎた欲望(=強くなりたい)のために悪に堕ち、しかも悪に堕ちた割にはダースベーダーほどの強さも得られず、伝説の装備一式を手に入れて(他シリーズと比べて比較的自由で伸び伸びとした冒険を経て)、さらに一つ上のステージに行こうとする主人公にとっての良い踏み台にされてしまう。

テリーと主人公のこの対比のさせ方から私は、「そんなに焦ることない。まだまだ時間はあるのだから、変に自分が決めた方向性に凝り固まることなく、焦らずゆっくり自分が本当にしたいことを見つけていけばいい」といったエールを受け取った気がしたのだが、問題はドラクエが基本的に子供や青年をターゲットとしたゲームということである。

このテリーと主人公の関係を、学生時代に見るのと、おじさんになってから見るのとでは、感じ方は結構変わってくる。

私自身を優秀なビジネスマンと言うつもりは全くないのだが、私を含め、ほとんどの大人はテリーである。あるいはテリーを目指して働いたり勉強している。本当の自分探しなんてのんびりとしたことなんかしていないで、シンプルでわかりやすい目標を早くから持ち、そこに突き進むことが良いとされているように感じる。
ただ、自分は少数派かもしれないが、実際はやらなければならない余計な仕事などが日々出てきて、打ち立てたシンプルな目標の実現にただただ向かっていくことなんてできない。そもそも、おじさんになったってそんなはっきりとした目標なんてそうそう見つからない。

残念ながら、現実世界ではいつまでも主人公ではいられない。本当の自分を見つけられないならば、たとえ本当はそれほど強くなりたいと思っていなくたって、どこかのタイミングでテリーのような生き方をせざるを得なくこともある(魔族に堕ちるというのを現実世界でどう例えるかは、人によって異なると思う。私としては、犯罪に手を染めるとかではなく、それほどやりたくもない仕事を給料のためにこなすようなことを「魔族に堕ちる」と捉えた)。
ただ、テリーは結果的に魔族に堕ちてしまったものの、魔王幹部軍の中でも特に優れた、チーム・デュランのNo.2の座を得ることができている。強さを過剰なまでに求めた結果、まがいなりにも自分の居場所を作ることができたのだ。

このテリーの生き様とその着地点について、「いやそんなに悪くないんじゃないの?むしろ立派じゃないのよ」と思ったのは、少年や青年時代にプレイした時に抱いた印象と特に大きく異なる点だったかもしれない。

自身のボスであるデュランもテリーの勝利にそれほどBETしていなかったのが切ない


グッときたポイント5.グレイス王の死に際の最後の一言

なぜこの言い方にしたのか、非常に興味深い

ドラクエ6のイベントの中でもとりわけ印象的なのが、グレイス城イベントである。グレイス城は魔王を倒すのに有効な伝説の装備の一つを代々護っていて、グレイス王の人間性も素晴らしく、兵士たちの士気も高く維持できているという、城運営のお手本のような存在である。

ややお堅い印象があるものの、グレイス城としての崇高な思想が伝わってくる

しかし、グレイス王は悩んでいた。できる限りのことはしているものの、このままでは世界は魔王の手によって支配されてしまう。聡明で視座が高いグレイス王だからこそ、魔王がジリジリとその距離を縮めてきていることが痛いほど理解できてしまっていた。そこで王が採用したのは、禁断の策。グレイス城の学者が発見した方法によっていにしえの悪魔を呼び出し、その悪魔に魔王を倒してもらうというヤバい手段である。

この手段を採用すると知ったグレイス城の人々の多くには不安がよぎり、瞬く間に賛成派と反対派が生まれた。もちろん、王本人もこの策がベストオブベストとは思っていない。いつか来るであろうと伝えられている勇者(=主人公)もいつまで経ってもやってこない。そんな幻のような話よりも、たとえ幾分か邪道めいた手段であっても、魔王をすぐに倒せる可能性がある道を選ぶ。それがきっと、グレイス城に住む人民のため、そして世界の未来のためである。
そう決心して、悪魔を呼ぶために祭壇へと足を運んだに違いない。

その結果、プレイヤーたちの予想通り、目覚めた悪魔は王の言う事に素直に従うわけもなく、速攻で王を焼き殺し、グレイス城を一瞬で壊滅させた。

今回のプレイで思ったのは、なぜグレイス王の死に際の言葉が「ぎょえーっっ!!」だったのかということ。「私の選択は間違っていたのか…済まない皆の者」とかであれば、王の崇高さを維持したまま死なせることもできたのに、ぎょえーっっ!!ってなんだかもう、ちょっとしたギャグみたいである。

悪を悪で倒すという手段はやはりとってはならないということを物語っているのか、どれほど高い志と確かな知恵で作戦を練ったとしても、所詮人間ごときが考えるものは悪魔にとっては低レベルなギャグであるということなのか。
いずれにせよ、このグレイス王の最後の一言は、歳を重ねた今、妙に印象深いものであった。

壊滅後のグレイス城。周辺は山がそびえ立ち、他の国々との交流も取りにくかったことが、グレイス王の決断を急がせてしまった原因の一つかもしれない。


グッときたポイント6.雪女のユリナの酔っ払いに対する容赦なさ

そうなんだ、髪飾りなんかつけて可愛らしいじゃないの。とか思っていると…
とても怖い。

物語の中盤に主人公たちが伝説の剣を求めて訪れることになるのが、マウントスノーという雪山地帯にある街である。ここには、ゴランという老人を除いて、全ての住民がユリナという雪女に氷漬けにされていて、幼き頃の私は結構怖かった覚えがある。
なぜそんなことになっているかと言うと、ゴランがまだ若い頃に雪山へと足を運んだ際に、アクシデントが発生して気を失ってしまう。それを助けたのがユリナだったのだが、その際にユリナは「このことを他の誰にも言ってはならない」と申し付ける。ゴランはその約束を守るつもりだったものの、友人との酒の席でふとそのことを漏らしてしまう。約束を破った罰としてユリナは上記の仕打ちを施し、ゴランも自身の行いを償うために一人で50年もの間、移住もせず、マウントスノーで何をするでもなく暮らし続けた。

最終的には主人公と会うことでユリナの気も変わり、氷漬けから住民を解放するのだが、住民たちは知らぬ間に50年の月日が経ったことに気づいておらず、ゴランに対しても「なんかよく知らない爺さんがいるんだけど…」という反応である。

50年ぶりに活気が戻った街の中で、ゴランは以下のようなことを口にする。

このセリフを少年時代に見た私は、ただただかわいそうだな、いくらなんでもユリナやり過ぎだよ、と思った。ただ、今になって見返すと、ゴランは論点をズラしているように思う。ゴランの過ちは、単に酔っ払って失言したことであり、別に強い信念を持ってどこかに突き進んだわけではない。
ユリナだって別に、信じた道の先が失敗だったとして、それを咎めるという意味合いで氷漬けにしたわけではないだろう。ただ、「酒は飲んでも呑まれるな」と50年かけて言い続けてきただけである。

ゴランのこの、意識的か無意識的かわからない、ややズレたセリフをおそらく聞いているだろうユリナはもしかすると、50年経っても全然コイツ反省してねえなと思ったかもしれない。私も酒の席では注意するよう気を引き締めた。


グッときたポイント7.ロンガデセオで生き残った老人の一言

ほう…?
……。

ロンガデセオという街はいわばスラム街で、他の街で悪事を働いた人間たちが逃げるように集まって発展してきた。なんでもありの無法地帯ではあるものの、実際は主人公たちに突っかかってくるような輩は現れないどころか、この街に住む凄腕の刀鍛冶のおかげで伝説の剣を手に入れることとなる。

そんな、若干拍子抜けのロンガデセオであるが、酒場で一人飲んでいる老人曰く、弱いがゆえに生き延びることができたのだと。かつてはもっと争いが絶えない時期があったのかもしれない。

このセリフにグッときたのは、この街における人間の価値を分かりやすく示すものとしてケンカの強さが真っ先に挙げられるのだとすれば、その価値に基づいて競争に励みすぎると上手くいかないのだなと思ったからである。
この老人が決して豊かな生き方をしてきたとは言えないのが残念ではあるが、弱いからこそ生き延びれるという逆説的な考え方は、現代の生き方においても何かヒントとなる部分があるような気がした。


グッときたポイント8.バーバラの「小さい“つ”」

最後のセリフはもちろんだが、個人的にはここの「ほらっ」にグッときた

バーバラとは主人公の仲間となる、大魔道士の血をひく若き魔法使いである。細かい説明は省くが、バーバラは諸事情により、最終的には主人公たちとは別れることとなってしまう。

しかし、上記画像のラストシーンは、恐るべき魔王を倒し、正真正銘の平和がやってきたという状況の最中のため、他のメンバーはもう嬉しくてしょうがない。そんなメンバーや主人公のことを気遣い、湿っぽい別れ方にならないよう、なるべく明るく努めようとする彼女の姿勢を、上記のセリフの「ほらっ」に感じてものすごくグッときた。

「ほら…」ではなく、「ほらっ」にすることで、歯切れの良さを出し、サッパリとした印象に持っていこうとする。でも、やっぱり悲しい気持ちを抑えきれなくて、言葉尻には余韻が残ってしまう。そんな複雑な心境を見事に表現していると思い、その匠の技に感動したのである。


グッときたポイント9.裏ダンジョンの意味深なセリフ

このセリフもなかなかに意味深

大魔王を撃破した後に行ける裏ダンジョンの中で、主人公の故郷である「ライフコッド」らしき村に訪れることになる。そして主人公の家らしき場所に行くと、そこにいる謎の女性から問われるのが上記の質問。ここで「はい」と答えると、ライフコッドらしき村が変貌し、本当の姿である「デスコッド」となる。
デスコッドではドラクエ4、あるいはドラクエ5のキャラクターに会うことができ、それはそれでグッとくるのだが、印象に残ったのは謎の女性が主人公に投げかけるこのセリフ。

だから初めて訪れた際に、主人公の故郷であるライフコッドそっくりに見えたのだとわかる
なるほど理解
…?
ここでプレイヤーは「なるほどね」となる。
ここからが特に印象的に思ったセリフ
この問いかけにはさまざまな捉え方があるように思う。

ドラクエ6は、現実の世界と、現実に基づく夢の世界を行き来する物語である。例えば住民Aの人格は現実の世界にも夢の世界にもあり、現実世界のAが「とにかくお金持ちになりたい」と願っていれば、夢の世界でのAはお金に困らない暮らしをしていたりする。普通なら互いの世界は行き来できないのだが主人公たちは可能で、それゆえに同一人物ではあるが、異なる環境で暮らし、やや異なる人格を持つ2人が出会う瞬間がくる。

2つの人格が出くわす瞬間に立ち会ってしまった一般人(ライフコッド村長)の反応

このことが先の謎の女性のセリフに繋がっており、デスコッドが最初はライフコッドに見えていたのは現実世界に元々いた主人公の願望であることがわかる。そして、女性の「あなた自身には本当に見たい夢なんてないのか」という問いかけは、夢の世界にいた主人公に向けられていることもわかるのだが、ではなぜ夢の世界にいた主人公には夢がないのだろうかと私は疑問に思った。

パッと浮かんだのは、夢の世界の主人公≒プレーヤーだから、その夢を何か特定のものにしない方が良いとされた説。もう一つは、主人公自身があまり欲がないという設定で、現実世界の主人公の願いである「ライフコッドでずっと暮らしていたい」が夢の世界では十分に叶えられている説。

個人的にグッときたのは、裏ダンジョンの絶妙なタイミングで、こういう考えさせられるセリフを放り込んでくるその「ニクさ」に対してである。しあわせの国やロンガデセオのポイントでもそうだが、思わず考えてしまうような何かがあるセリフをなんでもないモブキャラに言わせるのが、ドラクエシリーズはとても上手だと思う。


グッときたポイント10.最後の最後で危うい思想を漏らすチャモロ

悪が悪を倒すグレイス王の作戦を、勇者パワーによって実現させた主人公たち

魔王を倒すグレイス王の禁断の手段については先に挙げた通りだが、裏ダンジョンの奥地にいる最終ボス「ダークドレアム」はまさしく、グレイス王を瞬殺した「いにしえの悪魔」張本人なのである。
さすが裏ダンジョンのボスと言うだけあって、その強さはとんでもないのだが、特定の条件のもと撃破することでスペシャルイベントが発動する。その内容は、主人公たちを認めたダークドレアムが、願いを叶えてやると言って魔王である「デスタムーア」を主人公たちに代わって倒すというものであり、ドラクエファンの間では今なお語り継がれる屈指のイベントだ。

あれだけ主人公たちを苦しめたデスタムーアの技にびくともしないダークドレアムは、ヘラヘラ笑いながらデスタムーアをボコボコにする。そして一方的なワンサイドゲームで蹴散らしたあと、ダームドレアムはどこかに去っていき、そのまま通常のエンディングに繋がっていく。

全世界から祝福を受ける主人公たち。しかし、夢の世界の王様オブ王様的なキャラクターであるゼニス王は、魔王デスタムーアを倒したのは主人公たちではないことに薄々気づいていることが、あるモブキャラとの会話からわかる。

ちなみに主人公の名前はヒルメシです

そして個人的に印象に残ったのは、このセリフを聞いてのチャモロの一言。

おいおいマジかよと思った

チャモロとは、神のご加護を受けているゲント族と呼ばれる民族で、主人公パーティーにおける主要な回復・魔法キャラクターである。彼には元々人々の傷を癒す力が多く備わっており、また、その力を世のため人のために使おうとする清らかな心を持っている。

そんなチャモロが、である。まさかグレイス王と全く同じ思想のセリフを言い放つなんて予想だにしなかった。
平和のためであれば、何をどうしたっていいのか。真の平和を目指すのであれば、その手段についてはどこか超えてはならない一線があるのではないか。そういったメッセージを、グレイス城の悲劇を目の当たりにしたチャモロは受け取っていたのではなかったのか。

もしかすると、悪が悪を倒すというトンデモ展開は、まだまだ若いチャモロにとっては許容の範囲を超えるものであり、それでテンションが上がってしまってついこんなことを口走ってしまったのかもしれない。というか、そうであってほしい。確信を持ってこのようなことを言っているのだとしたら、ゲント族の将来は危ういなと、つい余計な心配をしてしまう。

結果的に平和になったからいいものの、今後もし悪魔が出てくるとしたらその発端は、こういった人々の心の僅かな隙間からかもしれないと思った。チャモロのこれからの成長に期待せざるを得ない。



思うがままに書いたら最終的にキリよく10のポイントとなった。
ベースの物語は何度やってもやはり面白いし、かつての自分は気づかなかった様々な気づきも加わって、自分史上いちばんドラクエ6を楽しめた気がする。

シンプルに「あ〜ドラクエ楽しかった」でも良いのだが、物語に登場する様々なキャラクターのセリフに込められた色々な価値観に思いを馳せ、「こういう考えもあるんだな」とか「この考え方は自分の生き方の参考になるかもな」などと昇華できると、より自分の暮らしが豊かになるように思えて楽しい。ゲームもそうだし漫画やアニメ、ドラマなどの名作は、そういうものなのかもしれない。

ということで、ドラクエ6。もしまだプレイしたことない方はぜひやってみてください。おすすめです。


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