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【2025 読了NO.2】五木寛之×栗山英樹 『「対話」の力』(NHK出版2024/10)読了。

この本を読んで、自分の仕事の迷いが無くなった。

政治に関する本を読んでいたのを少し休んで、何のために私は政治や世界史の本を読むのか?何のために自分は英語を学習するのか?

私は予備校の日本史の講師だが、少子化と推薦や総合型等の年内入試の広がりの中、予備校の日本史のコマが減る現実に直面している。

今迄蓄積してきた知識を元にYouTubeの世界に進出すべきか?

それとも指導可能科目を増やして、個別指導講師を兼任していくべきか?

五木寛之氏は、一番売れっ子作家であったときに休筆して、龍谷大学の聴講生になった。そのとき、仏教を本格的に学んだのである。

その彼の言葉が以下である。

「ブッダの生涯とは何だったのだろうと考えてみると、歩いた、語った、そして問答をした、基本的にその三つなのです。」

この一言で、私の迷いは消えた。

生徒の元へ自ら進んで歩くべきだ。
生徒に直接語るべきだ。
そして、生徒と問答すべきだ。

ならば、教育者としての矜持があるならば、指導科目を拡大してでも、生徒とリアルに接する立場を貫くべきだ…と。

古文、漢文、現代文は大学受験レベルまで指導経験がある。

数学、英語は中学生迄はOK。

2023年からヤッキになって読書している。この努力を生かすべくライターも考えたが、むしろ、総合型入試に不可欠な小論文指導にまで手を広げてみようと考えるようになった。

昨年秋に理不尽な交通事故に遭い、半端ない重傷で、年が明けても長期入院を強いられている。そのためフリスビードッグ、カヤック犬にまで育て上げた愛犬を里子に出した。

今は、間違いなく私の人生で最も悲惨で苦しい経験である。

そんな私が救われたのは五木氏の「人生の中で最もつらかった時期に幸せの基準をおく」という指摘である。。

「過去に、すごく悲惨だったり、苦しんだりした経験を持っていて、それをなんとか乗り越えてこられた人というのは、ある意味で幸せなのかもしれない。」「過去にそういうつらい経験があったために、なにかというと、その原点にスッと戻れて、その時代と比べて、『いま、文句なんか出るはずがないじゃないか』と思い直せることは幸せだと思います。」

これは心に響いた。

この試練に耐えられれば、「歩けるだけで幸せだろ?何の文句がある?」って思える強さを身に付けられるようになるかもしれない。

私はとにかく強くなりたいと願う人間だ。

退院の日は一人で自宅に帰ると伝えたら、親戚に「あなたは、自分の力を過信しているから心配だ」と指摘されたばかりだ。

私には自信過剰という自覚は無い。

「やりたい!」と思うことは、失敗に失敗を重ねたって、大抵最後は実現している。

私の「自信過剰」と誤解されてしまう心とは、いったい何だろうか?

その悩んでいた自分の気持ちを代弁してくれる言葉に出逢えた。栗山氏の質問に対する五木氏の回答である。

「(「継続してやる」という思いが強くて、努力が継続できる人間には、)向上心のような気持ちのほかに、たとえば、人生においていろいろな逆境にぶつかって、人に差別されたり見下されたりして、それを跳ね返すことで生きて来た人たちなんかはその思いが強いかもしれない。そういう世俗的な執念みたいなものが、やっぱり、その人の努力に関わってきますよね。」

ここを読んでいるとき、涙が出た。

私は小学生のときからデブで体育が苦手なくせに勉強ができたのでイジメられた。だから、同級生と同じ中学に行きたくない一心で中学入試をした。

そして、デブで体育ができなかったコンプレックスを跳ね飛ばすために部活にのめり込んだ。そのためにせっかく入った超進学校で落ちこぼれ、教師によって小学生以来の工学部志望を断念させられ、文転を強いられた。

しかし、一浪の末、私立の女子大に入ってから学問に目覚め、大学院は国立に入り、当時、三大予備校と呼ばれた中で、最も老舗の予備校の講師になれた。

まさに私は「人に差別されたり見下されたりして、それを跳ね返すことで生きて来た人」だった。それが「執念」となり、「反骨心」となり、努力を続けてこれたのだろう。

人生最大の逆境を迎えている今、この「執念」と「反骨心」で跳ね返し、この経験をなんとか乗り越えて、将来、何かあっても「いま、文句なんか出るはずがないじゃないか」と思い直せる強さを得たいと思った。


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