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レザムルーズを追いかけて #恋はいつも文庫版解説文


 どうして見ず知らずの人にこんなプライベートな話をしてるんだろう、と我にかえる瞬間がある。たいがいそれは話の途中でやってきて、そのうちグラスの水滴にとけてしまう。

 おとなを生きれば生きるほど、気軽に語れない物語がふえてゆく。周囲のしあわせ事情に気をつかったり、社会的立場に搦めとられたり、ひそやかな恋に身を投じたり、土足厳禁の想い出につかまったり。
 みずからの恋、それはプリンの底のカラメルだ。ただでさえあまい恋心は凝縮され焦がされて、とろみとあまみを増す。そっと沈めた物語はあじわい深く、ほろ苦い。

 そんな物語に耳を傾けてくれる人がいる。渋谷の裏路地にある、おとなの隠れ家。そのカウンターの向こうが彼の居場所だ。
 ひとたび本書を手にとれば、バーテンダーと店を訪れるおとな達の語らいにゆるゆると没入してゆく。ページをめくるごとにあらたなレコードと飲み物と恋が五感を満たし、かろやかな氷の音とともに鼓膜をゆらす。
 語り手が変わるたび、季節はうつろう。

 恋の冬。
 バーテンダーのかけたシンガーズ・アンリミテッドのクリスマスアルバムを、わたしもインターネットで再生する。おだやかにひろがるハーモニーとともに、青木という編集者の物語に耳をかたむけ、その身におきた奇跡に目を潤ませる。
 話が終わると、バーテンダーは「勤務中は飲まない」という己に課したルールをしずかに伏せ、カウンターに置いていたグラスを青木と合わせた。ひとりひとりの物語と気持ちに寄りそい、真綿でくるむように取りあつかう。バーテンダーの心づかいに胸がひたひたになった。

 「恋人たち」という名前のワイン、まだ見ぬレザムルーズの香りに、わたしは思いを馳せる。
 そして、彼らの恋にみずからの物語をかさね、真珠のため息をもらすのだ。

 

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 林伸次さんの著書『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』の文庫版解説文募集企画に、参加しています。




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