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「国語」と「日本語」 ~国語教育と日本語教育③~

日本語教育の歴史は古くは16世紀後半に遡る。大航海時代に相次いで来日したキリシタン宣教師たちは、布教のためにまず日本語を習得する必要があったからである。江戸時代初期には、日本語とポルトガル語の対訳辞書である「日葡辞書」や、イエズス会司祭のジョアン・ロドリゲスによる文法書「日本大文典」などが刊行された。

幕府の鎖国政策によって、日本語教育は一時停滞したが、18世紀にはロシア皇帝ピョートル1世が、サンクトペテルブルクに世界初の海外日本語学校を設立している。これは鎖国中の日本との通商を期待したものであり、日本人漂着民を教師とした日本語授業が行われ露日辞書も編纂された。当時の幕府は容易に開国に応ぜず、この企ては頓挫したが、19世紀に入ると、鎖国下でも日本との通商関係を維持していたオランダを窓口として、欧州で日本語・日本研究の気運が高まる。19世紀半ばに日本が開国すると、多くの外国人が来日するようになり、日本語学習書や辞書の刊行が再び行われるようになった。中でもヘボン式ローマ字の創始者であるジェームス・カーティス・ヘボンが執筆した「和英語林集成」は、日本語学習者のみならず、日本人の英語学習者にも用いられ、近代日本の欧米文化導入に大きな役割を果たした。

明治以降、第二次世界大戦終結までの時期は、日本語教育が植民地での日本語普及から強制に至る帝国主義政策の一翼を担う傾向が強まる。日清戦争後に日本が領有権を得た台湾では、伊沢修二の設立した芝山厳学堂を皮切りに日本語教育が本格的に始動したが、日本支配への反発から、芝山厳襲撃事件などの悲劇も起こっている。1910年に日本に併合された朝鮮では、さらに激しい軋轢があった。1919年の三・一独立運動は朝鮮全土に広まり、1920年代には総督府は強権政治から文化政治への転換を試みるが、30年代には日本の軍国主義の台頭もあって再び強権支配に傾き、朝鮮語の使用禁止と日本語の強制の動きが強まった。40年代に入ると総督府が音頭をとって、国語常用運動が推進された。ここでいう「国語」とは日本語のことである。つまり朝鮮の人々は自らの母語ではない日本語を「国語」として常に用いるよう強制されたということになる。「五族協和」を掲げながら実際は日本の傀儡国家であった満州国をはじめ、大東亜共栄圏の看板の下で日本の支配下に置かれた東南アジアの諸地域についても、事情は似たり寄ったりであった。

もちろん、そんな中でも、現地の文化を尊重しながら日本語教育を広めようとした教師たちは少なからずいたはずだし、現場での学びを通じた指導法や指導技術の真摯な実践開発も数多く行われた。台湾を皮切りに朝鮮・満州と40年以上にわたって教壇に立ち日本語で日本語を教える直接法(グアン法)を推進した山口喜一郎と、満州において中国語による対訳と注釈をつけた総ルビの教科書を開発し速成式教授法を唱えた大出正篤は、方法論においては真っ向から対立したが、ともに日本語教育の歴史に大きな足跡を残した。

戦後、国際社会における日本の地位向上に伴い、日本語学習者は右肩上がりに増加した。特にグローバリゼーションが進んだ20世紀末から21世紀にかけての増加傾向は著しく、1990年には100万人に満たなかった海外の日本語学習者は、2015年の国際交流基金の調査では360万人に達している。国別に見ると、中国・インドネシア・韓国がトップ3を占めている。国内の日本語学習者数も、1990年には約6万人だったのが、2017年の文化庁の調査では約24万人となっている。学習者の出身国をみると、これも中国をトップとして、アジア地域が圧倒的に多い。一方で、学習者数全体の増加に伴い、アジア以外の地域にも日本語教育の裾野は広がりつつある。多少の増減はあろうが、今後もこの傾向は続いていくだろう。

植民地支配という負の側面はあるものの、日本語教育の歴史は概ね日本の国際化の歴史と重なる。とりわけ直近30年の日本語学習者の急増は日本の小・中・高校で1300万人の学習者を抱える国語教育にとっても大きな影響を与えずにはいられないだろう。国語教育と日本語教育、各々の歴史の延長線上には、これまで以上に多くの接点が見出されるのではないかと思われるのだ。

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