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連載日本史㊶ 天平文化(4)

奈良時代には、文学史の上でも、画期的な出来事があった。「万葉集」の成立である。全20巻、約4500首が収められた、現存する日本最古の歌集である「万葉集」は、七世紀から八世紀にかけての広範な歌を集め、大伴家持によって最終的にまとめられたといわれる。長歌・短歌・旋頭歌など歌のスタイルも多様だし、相聞(恋歌)・挽歌(追悼歌)・雑歌(その他)、さらに東国の農民たちの「東歌(あずまうた)」や、九州に派遣された兵士たちの「防人歌(さきもりのうた)」など、歌のジャンルも多種多様だ。

元暦校本万葉集(Wikipediaより)

「万葉集」の歌人たちは、活躍した時代に応じて大きく四期に分類される。第一期(白鳳前期)には大海人皇子(天武天皇)・額田王・有間皇子、第二期(白鳳後期)には持統天皇・柿本人麻呂・高市黒人、第三期(天平前期)には山部赤人(やまべのあかひと)・山上憶良(やまのうえのおくら)・大伴旅人(おおとものたびと)・第四期には笠郎女(かさのいらつめ)・大伴家持(おおとものやかもち)と、有名な歌人が目白押しである。冒頭に置かれた長歌は雄略天皇の作と伝えられているが、いきなり天皇という立場をアピールしながら女性を口説く内容になっていて、歌集全体に漂うおおらかな雰囲気を象徴しているようで微笑ましい。

長野県神坂神社の防人歌歌碑
(Wikipediaより)

前述したように、東歌や防人歌など幅広い階層の歌が収められているため、「万葉集」は当時の庶民の生活感情を知る上での貴重な資料にもなる。一例として、貴族や官人の立場から見た庶民の暮らしを描いた、山上憶良の「貧窮問答歌」(抜粋)を挙げてみよう。

 風まじり 雨降る夜の 雨まじり 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば…
 我よりも 貧しき人の 父母は 飢え凍ゆらむ 妻子どもは むせび泣くらむ…
 かまどには 火気吹き立てず こしきには 蜘蛛の巣かきて飯炊ぐ事も忘れて…
 短き物を 端切ると 云へるが如く しもと取る 里長が声は 寝屋戸まで 来立ち   呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世の中の道

ここに描かれているのは律令体制下で重税にあえぐ農民の姿である。「古事記」や「日本書紀」が主に支配階級の歴史を綴った史書だとすれば、「万葉集」は庶民も含めた生活史を歌で綴ったものだと言えるだろう。文体も「古事記」「日本書紀」が漢文で記されているのに対し「万葉集」は万葉仮名、すなわち日本語をそのまま漢字で当て字表記した形になっている。現代でいえば「夜露死苦(よろしく)」「愛羅武勇(あいらぶゆう)」といった感じだ。

万葉仮名の一例(Wikitionaryより)

和歌集である「万葉集」と並んで、漢詩集である「懐風藻」の成立も見逃せない。現存最古の、日本人の手による漢詩集で、淡海三船(おうみのみふね)や石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が代表的な作者である。淡海三船は神武から元正に至るまでの天皇の諡号(しごう)、すなわち死後に贈られる名前を一括して定めたといわれる。だとすれば彼は、初代から四十四代までの天皇の名付け親にあたるわけだ。当代随一の漢学者だからこそ許されたことだろう。当時の教育機関では、中央における大学、地方における国学、ともに漢文と儒教の習得が必須であった。現代の日本で英語が必須になっているのと同じだ。昔は中国、今はアメリカ。時代と対象は変わっても、日本の基本的なスタンスは、さほど変わっていないのかもしれない。




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