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仕事で翻訳するときに考えるべきこと

なによりもまず最初に考えるべきこと

まず成果物のクオリティと訳出の難易度について考えましょう。これはバランスによって成り立つものです。天秤の左側にはクオリティと難易度(それぞれ後述)を載せ、右側には報酬やかけてもよい時間といった定量的な情報のほかに、クライアントとの今後の関係性などの定性的な情報を載せます。

要するに、
クオリティ+難易度 < 報酬+時間+今後の関係性
これが翻訳者にとって理想的な状態だと言えるでしょう。

では、まずクオリティについてはどう考えるべきか。

クオリティの3段階

成果物のクオリティには3つの段階があります。

  • 直訳

  • 意訳

  • 再書き起こし

これらの段階が進むごとに工程が増えていきます。そのため各段階に進むかどうかについては、報酬やかけられる時間等の量におのずと左右されます(上記のバランスで求められます)。これらの段階について意識的に選択する場合、当然ながらそれぞれの段階の作業を翻訳を行う人物(多くは自分自身でしょう)が遂行できる必要があります。

それが許される場合においては、これらの段階と費用感や期日についてクライアントに開示しつつ、先方に選んでもらうのも良いかもしれません。成果物に対する共通認識や合意が形成しやすくなります。

各段階について簡単に説明します。

直訳とは

原文の単語や構文をそのまま置き換える工程のことで、3段階の中ではもっとも基本的な翻訳です。

まず文中に登場する用語の一覧を管理するためのもの(Excelやスプレッドシートなど)を用意します。多くは、左に原語での用語、右に訳出対象の言語での用語を並べたものになるでしょう。最近のツールではこの部分を自動的に補完してくれるものもあります。

つづけて原文を読んだ内容をそのまま置き換えていきます。思わず次の段階の意訳をやってしまうこともあるでしょうが、とくに契約上の制限がなく、かつ頑張らずにそれができるなら意訳してしまっても良いでしょう。

文意がなるべく正確に読み取れることが最低限満たせていればよいもので、天秤の右側(報酬など)がとても軽い場合にはこの段階で留まるでしょう。いわゆる一昔前の機械翻訳もこれに当たります。現在でも、「どこか翻訳くさいな」と感じる訳文はこの段階までのものが多く散見されますね。

この段階の訳出は、早晩機械翻訳にとってかわられるでしょう(すでにそうなっているとも思えますが)。

意訳とは

直訳することで把握した文意をそのままに、訳出対象の言語の文章として違和感のない状態に書き換える工程のことです。しばしば「ただの直訳じゃん」などといった非難が聞かれることから、通常いわゆる「翻訳」に求められるのは少なくともこの段階以上のクオリティの成果物なのでしょう。

実例を示します。

The fact that Petronius Brevis has a child – a daughter – gives rise to much ribald humour in the small apartment block that he calls home.

Philip Matyszak - 24 Hours in Ancient Rome

ペトロニウス・ブレウィスに子供 ーひとり娘ー がいるという事実は、彼が家と呼んでいる小さな集合住宅の中で多くの下劣なユーモアを生じている。

直訳(筆者による)

ペトロニウス・ブレウィスが子持ち(一人娘)であるという事実は、彼が家と呼ぶこじんまりとした集合住宅《イーンスラ》のなかで、もっぱら下世話な笑い話の種になっている。

意訳(筆者による)

直訳の「多くの下劣なユーモアを生じている」は、一読して意味がわかりやすい文とは言えません。これを「もっぱら下世話な笑い話の種になっている」と意訳しました。そのほか「小さな」も「こじんまりとした」として、「家と呼ぶ〜集合住宅」のイメージがより湧きやすいようにしています。

もう一例示します。解説はしませんが、読み比べてみてください。

But St. Thomas had the scientific humility in this very vivid and special sense; that he was ready to take the lowest place; for the examination of the lowest things.

G. K. Chesterton - St. Thomas Aquinas
https://gutenberg.net.au/ebooks01/0100331.txt

しかし聖トマスは、この非常にいきいきとした特別な感覚において科学的な謙虚さを備えていた。彼は最も低い物事の検査のために、最も低い場所から始めるという。

直訳(筆者による)

しかし聖トマスは、この非常に鮮明で特別な意味での科学的な謙虚さを備えていた。彼は最も低い物を確かめていくことを、最も低い場所から始めたのだ。

意訳(筆者による)

再書き起こしとは

日本語の文章として違和感のないものに意訳したうえで、では同じ文章を自分や他の誰かが書いたものとして文章を組み立て直す工程のことです。広義には意訳のなかに含まれるかもしれません。

よく見かける村上春樹訳とか池澤夏樹訳とか古川日出男訳とか、ほかにも芥川龍之介と菊池寛の共訳の『アリス物語』も有名ですね。

これら以外に、他の誰かが書いたらどうか、あるいは「訳出対象の言語で生まれ育った別世界の筆者自身」が書いたらどうか、などという前提で訳出する面白いものもあります。

再書き起こしは、もはや翻訳の枠をはみ出しているとも言えます。実際の工程としては意訳以上にオリジナルの執筆に近いでしょう。

通常の作文は、『意識に浮かんでいて注意の向いているクオリアについて、よく観察し、得られた情報を構成し、最後に受け手に合わせて表現する』という流れで行われます。再書き起こしは、『原文の言わんとする内容をクオリアとして自分の意識に浮かべて、よく観察し、得られた情報を構成し、最後に受け手に合わせて表現する』という行為です。表現しようとする対象の出所についてと表現の箇所が異なりますが、それ以外は同じです。

そのためこの工程を経ることで、訳者の色が濃く出た訳出が出来上がります。またそのために、とても手間がかかるものです。

さて、クオリティの3段階については以上です。

何が翻訳を難しくするのか

冒頭に戻りましょう。翻訳では難易度についても検討する必要があるのでした。翻訳を難しくする要素は数多くありますが、筆者が実際に検討したり、出会ったりしたものは以下です。

  • 原文に含まれている言語の種類と数

  • 翻訳元の言語独特の表現

  • 新しい訳語の創出

  • 筆者特有の言い回しや用語

  • ジョーク、慣用句

  • 時代がかった表現や難解な語彙

  • 場所の文脈の不明瞭さ

  • その他の制限事項

それぞれについて以下に説明します。

原文に含まれている言語の種類と数

関係する段階:すべて
当然ながら、原文に含まれる言語の種類や数は、翻訳の難易度に直接的に関わります。ところどころに他言語から輸入してきた言葉が含まれるといった程度のものから、他言語話者同士の会話文、ラテン語での金言の引用などがある場合もあります。

また翻訳対象自体が訳文で、さらにもととなる原文が存在する場合、その訳文の誤りを訂正するために原文を確認しなければならなくなることもよくあります。その場合は翻訳対象の言語だけでなく、その大元の言語についても何らかの手段(自力で読んだり頼れる人を見つけたり)で参照できるよう考慮しておいたほうがいいでしょう。

翻訳元の言語独特の表現

関係する段階:主に意訳以降の段階
言い換えれば「訳出元の言語と先の言語とで、文章構造がどれだけ遠いか」です。たとえ英語から日本語の訳出であったとしても、コロンでの例示や補足説明、セミコロンでの接続、ダッシュでの接続、大文字での強調、複数形など、英語にあって日本語にない構造や表現は数多くあります。

こういった違いを日本語の文章構造で書き直す必要が出てくるため、自ずと訳出の難易度が上がります。ただし、もしそうしなくても良いという同意が取れているなら、この点は無視できるでしょう。

新しい訳語の創出

関係する段階:主に直訳の段階
もしかしたら「世の中ほとんどの概念については対応する訳語が用意されている」と考えられているかもしれませんが、未だかつて翻訳されたことのない言葉はまだまだ意外に多く存在しています。

筆者の場合、古代ローマ時代の軍隊用語や儀式、ケルトの神の名前などがそれでした。このときは日本語への訳出でしたので、すべてカタカナ語にしてしまうのも一つの手ではあったのですが、それでは「パッと見で意味が捉えやすい」という日本語の利点を失ってしまいますし、カタカナ発音を見せるのだけならルビを使えば事足ります。というわけで頑張って訳語を作りました。

前例が無いのなら自由にすればいいじゃないかとも思うのですが、何か間違いが起きて、以後自分の訳語が世の中に浸透してしまうかもしれません。慎重になるべきですし、そのぶん難易度も上がります(楽しいですけどね)。

特有の言い回しや用語

関係する段階:すべて
これも如実に難易度を押し上げます。一見しただけでは一般語にしか見えない単語が、特定の文脈でのみ異なる意味を含んで使われていたり、その文の筆者だけが特殊な意味で使っていたり、様々です。後者の場合は辞書を引くこともできないのでさらに難しいでしょう。読んで意味を拾いながら、異変に気付くしかありません。

ジョーク、慣用句

関係する段階:意訳以降の段階
直訳の段階ではそれ以上の訳出は諦めてしまうことも多いと思いますが、ジョークや慣用句は「翻訳苦労話あるある」の常連です。まず意味を把握するのが一苦労なうえに、それを訳出先の言語で組み立て直すのもまた難しい。

そのうえこれらには、「知らなければ気付けない」という罠が張られていることもよくあります。いわゆる「知ってる読者だけがニヤッとできる」ような表現は、何食わぬ顔をして潜んでいるのに対し、その訳出のためには背景や用語についての知識が必要になることが多くあり、厄介です。

ジョークの難しさに関しては、以下の引用とその直訳を見てもらえれば十分でしょう。

SAPETE PERCHÉ IL POMODORO NON RIESCE A DORMIRE? PERCHÉ L’INSALATA RUSSA.

Tiziano Sclavi,  Angelo Stano - DYLAN DOG #1 L'ALBA DEI MORTI VIVENTI

どうしてトマトが眠らないか知ってますか? ロシア風サラダだからです。

直訳(筆者による)

時代がかった表現や難解な語彙

関係する段階:意訳以降の段階
たとえば登場人物の口調に時代がかっていたり、原文の筆者が使用する語彙が難解だったときには、訳文もまたそれに合わせた表現で書かれるべきでしょう。古文調の文を自由に書くことができ、難解な語彙を自在に操れるのであれば問題ないのですが、そのような人は決して多くないはずです。こういった要素もまた、難易度に影響することでしょう。

場所の文脈の不明瞭さ

関係する段階:意訳以降の段階
翻訳対象の原文がどこに掲載されているものなのかわからない場合、訳出した成果物がどこに掲載されるのかもまたわかりません。言語表現では、場所が文脈を持ちます。正確に翻訳するためには文脈の情報が欠かせません。

この種の話題は、とくにゲームのローカライズにおいて有名です。

その他の制限事項

関係する段階:おそらくすべて
その他に何らかの制限事項がないか、事前に依頼者に対してよく確認しておきましょう。依頼者自身が自覚していない制限があることもよくあります。正式に契約書を交わしていれば、そういった場合の差し戻しの有無や回数制限があなたを守ってくれるはずですが、多くはそうではないと思われます。使ってはいけない単語の一覧があるならそれをもらうべきですし、常用漢字や人名用漢字以外を使ってはいけない場合もあります。

常用漢字の扱いや、カタカナ語、日付表記などのルールについては、記者ハンドブックが参考になります。

また、文章を入力することで常用漢字などをチェックしてくれるWebサイトもあります。

https://joyokanji.info/

使える場面は限られるかもしれませんが、覚えておいて損はないでしょう。

さて、これでクオリティと難易度について検討できました。報酬や期日などを決めるうえで、他に検討事項はないでしょうか。

翻訳のあとの工程

翻訳作業を終えて訳文ができたあと、いざ訳文が使われる(掲載されたりする)ときまでの間には、まだ作業があります。ここには一例を示します。

  • 校正

  • 校閲

  • コピペチェック

  • 編集

  • 公開

万が一の事態を回避するため、これらの作業までを含めて「翻訳」として自分に依頼されていないか確認しておきましょう。


おわりに

翻訳のクオリティや難易度についての認識が深まることで、『クオリティ+難易度 < 報酬+時間+今後の関係性』というバランスでの健全な翻訳依頼がもっと世の中に増えてくれればと思いっています。

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