メメント・モリ
メメント・モリとは、ラテン語で、「死を想え」という意味なのだという。
藤原新也著『メメント・モリ』は、大学の詩学の先生(授業は、ほとんどタルコフスキーの映画を流すだけだった)から勧められた本、と記憶している。
紹介されたとき、「これは、借りるより、買う本だ」と直観し、大学の売店には置かれていなかったので、大学の向かいの、青山ブックセンターで手にしたのだった。
写真集コーナーで見つけた、その本は、思いの外、ツルツル、テカテカの、ゴールドの表紙だった。
(ゴールド、黄金は、実は、明度の低い色である)
加えて、ビニールが、かかっていた。
どこか、食肉のパッケージが、思い起こされた。
死をサランラップし、直に見せつつ、どこかひた隠しにする、矛盾ばかりのパッケージ。
とはいえ、破く。
ビニールを剥ぎ、生身の本が、あらわれる。
フリーダ・カーロの絵を観たときの感覚と、似た感覚が呼び起こされる。
強烈な死と生の、におい。
本から、呼吸音や拍動さえ聞こえてきそうだ、と思った。
開いたページ、真っ先に飛び込んできたのは、犬に食われる人間の死体の画だった。
血の気のない死体は、薄闇に、異様に白く浮かび上がっていた。
その画には、
「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」
という言葉が添えられていた。
衝撃だった。
思わず本を閉じた。
だが、「見るべきだ、見なくてはならない、見たい」という思いで、もう一度、開いたときのページに書かれていたのが、
「遠くから見ると、
ニンゲンが燃えて出すひかりは、
せいぜい六〇ワット三時間。」
だった。
ニンゲンかどうかも判別できない、遠いひかり。
犬に食われて、燃されて。
でも、せいぜい六〇ワット三時間。の人間。
人間は、どれほどのものなのか。
人間は、それほどのものでしかないのか。
しかし……
犬に食われるだけ……
せいぜい六〇ワット三時間。の、ひかりになれるだけ……
人間は、糧であり、ひかりであるのだ、とも思った。
それは、わたしにとっては、絶望でありつつ、希望でもあった。
目が覚めるような、胸のすくような、自由だった。
わたしも、食われて誰か何かの糧になり、燃されてひかりになって消えていきたい、と思った。
“あなた”へ消えてゆくことなら、わたしにもできる、と。
わたしは、“あなた”という言葉を、“貴方”というよりは、“彼方”という意味で用いている。
彼方も、“あなた”と読む。
あなた、と呼びかけるほど、愛し愛された、たった一人の人は、わたしには、いない。
彼方、でいい。
彼方、がいい。
でも、貴方は、いる。
それは、わたし自身、でもある。
∞
唐突ではあるが、わたしは、魂の永遠を疑わない。
彼方なる世界を、疑うことはない。
一方で、この世的な肉体は、確実に消費されていく。
仕事や、人間関係で消耗するのみならず……
歳をとるごと……
男と身体を合わせるごと……
年長者の愚痴の掃き溜めにされるごと……
嗤われ、恥をかき、憤り、悲しみに沈むごと……
怒りをぶつけ、人を傷つけ、自己嫌悪に陥るごと……
わたしは小さく壊れ、死んできた。
死を願った。
「死にたい、生きていたくない」と、わたしに思わせるのも、「死ぬな、生きろ」「逆縁は、いけない」と、諭すのも、貴方だった。
自殺は、他殺だ。
わたしが死ぬなら、貴方が殺したのだ。
思えば、生だって、性だって、救済でさえ、消費し、消費されるものなのかもしれない。
指をしゃぶり、自分はキレイなふりをしながら、わたしの骨の髄までも、しゃぶる貴方は、食らう犬でありながら、死をオブラートしたビニール越しの存在にも思える。
ビニールで隔たれた、透明人間。
生きた死者。
いや、死せる生者、だろうか。
亡き者にされる者。
犬に食われるほど、自由な供犠。
だからこそ、あなたかなたへ、消えていきたい。
跡形なく、生きた痕跡一つなく、何一つ帰結することなく。
せいぜい六〇ワット三時間。の、ひかりを灯して。
燃えるなら、せめても、灯したいのだ。
取るに足りない、ひかりであろうと。
メメント・モリ。
死を想え。
こうべを垂れ 目を瞑り
手を合わせ 涙を流す
ソコのニンゲンよ
(まだ人間であるなら)
死んだ人を想うように
生きた人も想え
死ぬほど生きろ
生きたように人は死ぬ
切り落とした髪と爪と
こそげ落とした皮膚片を
最後のマッチを擦るように 燃せ
ひかりとなり 彼方へと
跡形なく 消えてゆけ
∞
死を想う。
死を想わぬニンゲンは、どこまでも傲慢になる。
なれてしまう。
いくらでも、むしり取り、むさぼり食おうとしてしまう。
人間で、いたい。
人間に生まれたのだから。
死者を悼みたい。
そして、人間の一員として、わたしは消えたい。
死さえ、消費されてしまうのだとしても。
せいぜい六〇ワット三時間。よのひかりに、なれたなら。