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小説『One is not born a genius, One becomes a genius.』


One is not born a genius, one becomes a genius.
 
人は、天才に生まれるのではなく、天才になるのだ。


スカイブルー色のガラスでコーティングされたその塔。学生の頃からこの場所が大好きだった。暇を見つけてしょっちゅう登りに来ていた。登るとまるで、自分自身も空の一員になってしまったような、そんな気分になる。それが好きだった。上層階へ向かうエレベーターは全面硝子張りで、訪れる人々を瞬く間に天空の世界へ連れて行ってしまう。生憎、今日は激しい雨が窓を覆い尽くしていた。

このまま、あなたの側まで行けたら。
そう思った時が、無いわけではなかった。

今日のために大切に取っておいた、ターコイズグリーンのタイトなドレス。にわか雨にに降られ、裾と足元が少し濡れている。プロポーズの日も、このドレスでこの塔のホテルに居た。あの時から幸せは続くと信じていたのに、私たちは何故だろう、運命の坂を転がるように下った。

天才は早死にする。なら、私は天才じゃない。私じゃ手に負えないほど巨大なカンバスを広げ、鮮やかな極彩色を波のように操る貴方を見て、いつもそう思っていた。学生の頃から貴方は別格で、周囲とは何もかも違った。貴方だけが光り、悪く言えば孤立していた。でも、そんな貴方の事が不思議と嫌じゃなかった。貴方の側に居ればいつまでも貪欲な気持ちで居られると思ったの。

「天才の妻」と呼ばれる。
そんな人生が、私は欲しくなったの。
我儘でごめんね、と棺桶の前で私は貴方に謝った。

ねぇ、覚えていますか?

輝く貴方の側で筆を取り、貴方の才能に追いつきたい一心で走り続けた日々。忘れるという行為すら思いつかない日々。あのとき私と貴方が描いた絵の一つ一つが、付けた手のしわの一つ一つが、絵の具汚れの一つ一つが、まるで羅針盤のように。あるいは世界地図のように私の往くべき場所を教えてくれるの。

世界を駆け回る貴方が、まさか眠ったままで私の元へ帰ってくるとは予想もしていなかった。何か起ったかよく分からないまま、最後に貴方が何と言って逝ったのかも知らないまま、ただ捻じ曲げようのない事実だけが私に伝えられた。あまりにも、筆を折った。悲しくて、家から出ないまま何年が経ったか自分でも覚えていないぐらい、何もしなかった。違う、何も出来なかった。初めて「全てを忘れたい」と思った年月だった。

そんな私を、貴方は空から導いてくれた。「追悼展をやりましょう」と、彼が世話になっていた美術館の大人から誘いの言葉を貰った。正直、どうしようか迷った。「天才の妻」であっても「悲劇の妻」ぶることはしたくなくて。でも、ある時その考えが何かの拍子でひっくり帰ってしまった。彼を一番側で感じてきた絵描きだから、彼が生きた証を遺す権利がある。むしろ、そうしなければならない。導かれるように、私はその話を引き受けた。

まあ、あの世で彼に怒られたら
その時に謝ればいいか。とも思っていた。

展示室のドアを開ける。まだ開幕前、誰もいない部屋の中。自分一人がこの美術館を占拠してしまったかのような静けさ。わざと音を立てて歩いてみたり、部屋の真ん中に座ってみたりした。沢山並べられた学生時代からの作品の数々。その中に所どころ混じる、私の作品たち。こうやって展示されて、誰かの目に触れるのは大学の卒業制作展以来かもしれない。こっぱずかしいけど、貴方の絵も側に居るのだから別に一向に構わない。じっと貴方の絵を眺めてみると、一つ一つ、描いていた時の記録が鮮明に脳内のスクリーンへ映し出されていく。それはまるで、古いフィルム映画のようで、ところどころ褪せたりシミが付いたりノイズも混じるけど、大事な所までは浸食されていない、大切なメモリーだ。

結局、何が正解かなんて死んでからじゃないと分からない。ひょっとしたら死んだあとでも、この人生は正しかったのかな、なんて三途の川渡りながら反芻して考えてそうな気がする。でも、天才を愛し、秀才として側を共に走り、やりたいようにやってきたこの人生なら、来世でも胸を張って自慢できそうな気がする。

パンフレットに載せられた作者近影。私がセレクトした。写真の中の彼は、これ以上ない堅い笑顔をしている。一度だけ、私が彼に「笑っている姿を見たい」とねだって撮った、唯一の笑顔の写真だ。見慣れたはずの写真に向かって、私は礼を言った。ありがとう。今もあなたは、私を導いてくれているのね。このまま、私がまだ何も迷うことなく生きて居られるように支えていてね。秀才を伸ばしてくれる存在は、天才以外に誰もいないのだから。

遥か遠く、神戸方面の空から
オレンジ色のサーチライトが光り出す。

瞬間、激しいにわか雨は嘘のように止み、
素晴らしい夕暮れのショーが開演した。



[了]



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