ヨルシカの太陽について考えたこと
ヨルシカの楽曲『太陽』の、主に歌詞についての考察です。
何か新しく考えたら追記するかもしれません。
プシュケという言葉には、蝶と魂両方の意味があるらしいです。
萩原朔太郎『蝶を夢む』の「幼な兒の魂」≒蝶 なのかなと。
「幼な兒の感情が とほい水邊のうすらあかりを戀する」≒蝶が太陽に焦がれる
太陽への情熱も小さな太陽(≒熱)だから、太陽を蝶に喩えたのかなと。
アポリアの「あの海を見たら 魂が酷く跳ねた」と同じ情景な気がしました。
「とほい水邊のうすらあかりを戀する」≒「白い魚の群れにあなたは見惚れている」
「私が触った花も、私の指も」の指は、花の蜜を吸う蝶の触手なのかなと。
『蝶を夢む』に「その長い觸手」とありますし。
太陽≒美 なのかなと思いました。
美→大+羊→大羊→太陽
太陽を「美」しい蝶に喩えていますし。
「美しい蝶の羽を私につけて」から、
羽をつけた私→羽つく私→美し と連想できます。
蝶≒葉 だと感じました。枼が共通しています。
「ひらりひらりと木洩れの光」
→葉の間から洩れる光
→羽からこぼれる「美しい鱗の粉」
太陽≒大葉≒大きな蝶 なのかなと。
「木洩れの光」≒粉漏れの光 鱗粉でもある気がしました。
「の」を入れているのが、「鱗の粉」という表現に似ていますし。
「行ったり来たり」は酸素と二酸化炭素の循環を連想します。
「木洩れの光」が光合成で酸素を作り、
「あくびの軽さ」(≒呼吸)が二酸化炭素を作るという。
「美しい蝶」→華麗な蝶→鰈
鰈は白身魚なので、アポリアの「白い魚」を連想しました。
地平を染めた「美しい鱗の粉」は鰈の鱗、「白い魚の群れ」なのかなと。
『太陽』は、陽の光を蝶の羽根に見立てています。
鱗と燐は字が似ています。蝶の鱗粉を燐(≒太陽の火)に喩えているのかなと。
「太陽」の阝を月と見間違う→太腸→大きな蝶
「遠い国の誰かが月と見間違った」結果、太陽を蝶に喩えたのかなと。
エルマも、海中からみた日光を「月明かりのよう」と日記に書いています。
アポロ計画(月に行く計画)は、太陽神アポロンが名前の由来らしいです。
月をモチーフにしてきたヨルシカが『太陽』という曲を作るのに似ていると思いました。
「美しい蝶の羽を見た 名前も知らずに」は、太陽のことを知らず蝶と誤認しているのかなと。
人の日々にはお日様が必要不可欠ですが、お日様に人は必要ありません。
「緩やかな速度で追い抜いてゆく」、人が勝手に名付け喩えた太陽の呼び名たち(=日々)からも、太陽は自由な気がしました。
「私が歩いた道」→お天道様
「私の足」→日脚
「私が触った花」→日華(太陽の別称)
「その他の日々」→人間が見た太陽たち
で、太陽はそれらを追い抜いてゆくのかなと。
蝶が越えていく と思うと、
超越 に掛けてある気がしました。
鱗は英語でscale(スケール)です。
「美しい鱗の粉よ地平を染めて」は、太陽という大きなスケールで染めるのかなと。
「あくびの軽さ」は light に光と軽い両方の意味があることを連想します。
「あくびの軽さ」に『る』を入れると、
明くる日の軽さ になります。
「あくびの軽さ」から『くびの』を取り除くと、
明るさ になります。
「ひらりひらりと木洩れの光で」は、蝶の羽の斑点と、木洩れ日が地表につくる斑模様を同一視しているのかなと。
蝶と喋は字が似ています。
「行ったり来たり」≒言ったり聞いたり あくびの軽さで喋るのかなと。
概要欄に「日が空いてしまいました」とあるので、
「あくびの軽さ」≒空く日の軽さ な気がしました。
「行ったり来たりを繰り返しながら」詩を書く、日を空けゆっくり創作するのかなと。
MVも制作過程の映像ですし、
夢(内側での時間)と現実(外側での時間)を行ったり来たりするとか。
「恐る恐ると羽を広げながら」≒想像力の羽を広げながら な気がします。
醜い私(作者)を知らず、美しい蝶の羽(作品)を見られるのかなと。
「行ったり来たりを繰り返しながら」は夜と朝を行き来すると取れます。夢現で欠伸していると。
胡蝶の夢を連想します。
蝶の羽をつけた私は、あくびのように夢と現実(蝶と人)の境界にいるのかなと思いました。
あくびは、飽くが語源という説があるらしいです。
「あくびの軽さで行ったり来たりを繰り返し」は、
ルバートの「飽きのないものをずっと探していたわ お日様とのダカーポくらい」に繋がる気がしました。
「醜い私」は見にくい私、眩しくて見にくい太陽を連想します。
人は太陽の醜さを、見にくさ(眩しさ)故に知らないのかもと思いました。
緩と暖は漢字が似ています。
「緩やかな速度」は、太陽の暖かな温度でもあるのかなと。
鱗の粉が「地平を染めて」、地平遅めていく。「ゆっくり」させるとか。
アポリアの「気球」は、閃いた時頭上に出る電球マークを連想します。知の欲求の喩えですし。
太陽の概要欄に「白熱電球のように明るい蝶」とあります。
閃きは人の頭上を太陽のように飛び越えていくのかなと。
「美しい蝶の羽を見た 醜い私を知らずに」の私=我 で、
醜い私=虫の我=蛾 という気がしました。
蛾は英語でmoth、month(ひと月)に似ています。
太陽が蝶なら、月は蛾かなと。
夜の自販機に集まる虫のように、蛾が気球(白熱電球)を月と見間違ったらいい という。
『涯』という字には、遠い果てという意味があります。
アポリア「水平線の先を僕らは知ろうとする」は、生涯の先を知ろうとするのかなと。
概要欄に「知りたいという欲求は際限がなくて」「人生で知れることの量には限りがある」とあり、生涯の限界を越えて「知りたい」のかなと。
「私が死ぬ日の朝も、その他の日々も 緩やかな速度で追い抜いてゆく」は、
水平線に沈む太陽を、私の生涯の先へゆくものに喩えている気がします。
概要欄の「蝶が羨ましい」は、太陽(蝶)が果てしなく永く生きるのが羨ましいのかもと。
アポリアの概要欄「新しい何かを知れないことは停滞」と、
太陽の「人と違って決して変わらない」は対応していそうです。
胡蝶の夢の荘子の「吾が生や涯てありて、知や涯てなし」はアポリアっぽいと思います。
「大知は閑閑たり、小知は間間たり」、太陽(蝶)は大知だから「ゆっくりゆっくりと」してるのかなと。
「蝶が羨ましい」≒蝶になって「私が死ぬ日の朝」も緩やかに追い抜いてゆきたい とか。
「僕」は「新しい何かを知れないこと」を恐れています。
大知、緩やかな存在(恐れない存在)になりたいから「恐る恐ると羽を広げながら」で終わる気がしました。
アポリアの概要欄を踏まえると、全知は「新しい何かを知れない」ので停滞します。
だから太陽は「ゆっくりゆっくりと」して、「人と違って決して変わらない」のかなと。
概要欄の「気が遠くなるほどに繰り返されてきた営み」は、太陽の営みと取れます。
営の旧字の『營』には火があります。
人間の営みも、火(太陽)のように燃えている気がしました。
以上です。お読みいただきありがとうございました。