思木町6‐17‐4(12終)


  北向き、予見

 自分が、香の甘い匂いを嗅いでいることに気が付くと、わたしは目を覚ました。ぼんやり左側の壁にくり抜かれた窓を見ると、まだ光が差している。東側の壁――うとうととしていたのは、それほど長い時間ではなかったらしい。
 わたしはもたれかかっている脇息から肘を離し、座り直した。ショウジンたちが外の木を切り、わたしのために新しく作ってくれたこの脇息は、頬杖をつくのにも、体を寄り掛からせるのにも良かった。おそらく、最高級の、芸術の域になるデザインの家具は、このような物なのだろう。お金に替えようとすれば物凄い値になる。部屋にはそんなものが、他にもいくつか並んでいた。飯台に香炉台、花鉢の台、水甕の台、わたしのリュックを置く専用の台――それはより、細工を極めていた――床には板が敷かれ、座布団や枕のような物もあった。そして入口には、大変に立派な木の扉が設えてあった。
 わたしが目を覚ましたのを見ているショウジンの女の子が居た。ルミさんの娘、名前をルナと言う。毎朝この部屋に来て、わたしの世話をしてくれる。ここ最近、わたしが会うショウジンの中では、彼女の事は割に好きだった。彼女に言った。
「お水をくれる?」
「うん」
 彼女はにこにこと甕の所に行き、楽しそうに陶器のコップに水を汲んだ。ゆっくり、わたしの所まで運んで来ると、コップを目の前の細長い机に静かに置いた。
「ありがとう」
「うん」
 彼女はまた、部屋の右の方に行って座った。にこにこと、鉢の上に浮かべてある白い花を取り、床に広げて遊んでいる。彼女はミセイジンだと、他のショウジンは言っていた。もう、八つの歳になるにも関わらず、二つの言葉しか話せない。「うん」と、「いや」だけが、彼女の口から聞ける言葉だった。ほとんどいつも笑っていて、「いや」と言うときだけ、笑いながら大変に困った顔をした。ショウジン達は、彼女が他のショウジンを差し置いて、わたしのところに侍るのを嫌がった。もっとまともな人間が務めるべきだと。でも、わたしは受け付けなかった。彼女以外の人間が、ずっと近くに居るのには耐えられない。わたしは彼女が好きだった。ただ彼女だけが、わたしに対して「いや」と言う人間だった。
 わたしは机の上のコップを手に取り、水を飲んだ。木には、精巧な花と鳥の細工がされている。わたしは立ち上がって、部屋の奥の段から下りた。祭具の脇を通って、敷板の上を歩いて行った。ルナはわたしが部屋を出ようとしても頓着しない。蕚の下で切り落とした花を並べては、引っくり返し、遊んでいる。わたしは重い木の扉を動かし、光の差している二階の廊下に出た。
 廊下の、東端に出ると、日は木立の上から注いでいた。塀から離れた木々の上に、青い空が覗いている。わたしは廊下に咲き乱れる花の中を、反対側に向けて歩き始めた。オイイは細く瑞々しい緑の茎を伸ばし、煙のような花で廊下を包んでいる。草の上を歩いて行き、非常階段の樹の前を通り過ぎると、塀の隙間から、黒い地面がちらりと見えた。エレベーターの木の前で曲がり、晴れた青空を正面に見据えると、角を折れて、西の廊下に出た。厚い緑の塀越しに外を見渡せば、ここら辺の木も大分切られているのが分かる。間口の並ぶ壁が明るい。わたしは通路を端まで行き、木の扉の前で止まった。先程まで居た部屋と同じくらい、重く、立派な扉がある。わたしは腰を入れて両腕を使い、扉をずらすと、中に入って行った。
 表と違い、あまり光の入らない西の居室に入ると、すぐに扉を閉めた。振り返って中を見ると、西に開いた窓がほの白い。扉を閉めると、音も隔たり、不思議にしんとした。西も、北側にも穴が開いているけれど、室のように涼しい。匂いも、廊下や他の部屋とは、少し違う匂いがしている。
 わたしは部屋の中を歩いて行った。以前は暗く、白いオイイが生え、採ったものが積み重なり、壁はジメジメと陰気だった。北の窓には、森の暗黒が覗いていた。そこで――この場所で、わたしは初めて「ミヨウヤ」なる赤い獣を見た。一度目も――二度目も、わたしは死骸しか見ていない。生きているもの――本当のものを見たのは、他の誰かだ。その人は「ほんもの」を見て、そして、それを殺してしまったらしい。わたしが見たものは――残っていた景色は――ただ、自分の前に横たわる、大きな赤い毛の動物だった。
 わたしは部屋の奥まで来て、七本の木の札を差してある所で止まった。細長く、先の尖った木の板が、大体一カ所に集まるように差してある。そこには、白い石杭が埋められている。ショウジンが作ったミヨウヤの墓標、記念碑のようなものらしい。わたしはそこで振り返り、部屋の入り口を見ながら座った。昔見た情景は、もう跡片も無く残っていない。部屋のなかには、穏やかに光が入り、オイイの白い根は隙間に見えず、薄い緑の草が芽吹いている。ショウジンたちは、女も男も二階に降りて来て、オイイの葉に水を遣るようになった。茎はもう、大分高く伸びている。近いうちに麦のように実り、穀物が取れるだろう。そして、彼らはどんどん二階の下に降りて行った。今は少しずつ、行き先を拡げている。周囲の木を切って物を作り、実のなる樹は、その実を取り尽くして、次にいつ生るかも分かっていなかった。二階の廊下に光が入るように、蔦や蔓も大分整理された。マンションの中は、随分明るくなった。
 ミヨウヤが死んだ後、色々な事があった。雨が降り、雷が鳴ったあの日――彼らは、その日をイチノヒと名付けた――大量に出た犠牲者は、二階の西廊下の部屋に埋葬された。この隣の三つの部屋が、墓地として使われている。初めは、ある一人のショウジンの男が言い出した事だった。彼は二日目に、わたしに死者をどう扱うべきか尋ねた。わたしの所では、どうしているかを知りたがった。彼らはそれまで、死んだ者は五階からただ投げ捨てていたけれど、わたしがお墓の話をすると、感銘し、直ぐにそれを真似て霊園を造り出した。彼らは墓標を求めた。わたしが、ちらりと木の棒でも立てたらいいと言うと、彼らは自分たちの住処の周り、マンションの周囲の森に初めて目を向けた。今まで暗く閉ざされ、外に出ようと考えもしなかった彼らが、十三日目――特徴的な数字だから覚えている――に選出者を出し、暗闇に乗り込んだ。彼らの選ばれた者たちが、縄をくくって、樹を伝った。そして――何てことは無い。彼らは、固い、湿った土に降り立った。
 その日から、彼らの新しい生活が始まった。その日も、そのとき地面に降り立ったショウジンも、彼らの中では聖なるものとして名前が与えられたが、わたしは覚えていない。尋ねられ、わたしが付けたのだが――彼らはサンナサマに対して、自分たちを呼ぶ名前も欲した。そこで、いつかショウジンという呼び名が生まれた。その経緯も、わたしは忘れてしまった。
 ミヨウヤに喰い尽されようとしたオイイは、その量を随分と減らしていたが、わたしは水を撒くよう彼らに言った。やがて、何日か経過すると、白い根だったものが芽を出して、茎が伸びて葉が開いて来た。わたしは彼らに、日の光をあてるように言った。前に取ったオイイの根、今ある蓄えが無くなる頃には、ちょうど稔りが出来るだろう。それを、わたしは知っている。今までオイイは根として、彼らの生活と共に、何もせずとも勝手に生えてきた。時期が来れば、必要な分は取れていたのだ。もうすぐ彼らは、白い根っこよりはるかに美味しい、自分たちの育てた種子を食べるようになる。次の年には、その種をマンションの外にも播き、畑を作って作物を取り始めるだろう。さらに次の年には、それをもっと拡げていく。やがては、取れる量も増え、蓄えも多くなっていくだろう。必要な分よりも多くのものが得られるようになり、彼らは喜び、満足するだろう――同じほどの苦しみと争いが、生まれてゆくのには気付かずに。彼らはそうなって行くことを知らない。わたしは感謝を捧げられる。育て、蓄え、富み、貧しくなり――わたしと同じ立場に居れば、誰でも分かる。でも、止めることは出来ない。
 わたしは、室内の扉に目を戻した。蔦と鳥の彫刻――外から、ホトトギスの声がした。どこで啼いているのだろう、ここに居ると、外界のことが遠くに感じる。この部屋は壁一枚あるように、音の流れも、風の流れも――時の流れも、遮っている。わたしは座ったまま振り返り、墓の方を向いた。七本の木の柵、北の森、何かを地下の倉庫に閉じ込めているようだ。他のものが進んで、移り、無くなって行くなか、ここだけは残ろうとしているのだろうか。
 セレンはあの日以来、姿を消した。この部屋のベランダから落ちたという。オーキナから、セレンの母が前に亡くなったのを聞いた。彼女は、母のもとに帰ったのだと。しかし、十三日目――ショウジンが地面に降りて、その何日か後には、この前の森まで探索が進んだ。そのとき、彼らはセレンの身体を見つけ、他の者と同様に彼女も弔おうと思っていた。結局、セレンの亡骸は見つからなかった。今も、骨一つ、裾の切れ端も発見されていない。何の痕跡も無く彼女は消え、墓も造られなかった。そして、最後にセレンを見た人物――ベランダから落ちて死んだと言っていた人間は、十三日目に非常階段の樹を降りた後、行方が知られていない。カツミは、暗い森のどこかに消えた。
 わたしは、墓の前で立ち上がった。ベランダの奥の方を眺めると、未だ薄暗い。蔦や根は刈り取られたけれど、北の方は建物の影になっている。わたしは振り返って、扉へ歩いた。もうそろそろ、ショウジン達が外から戻って来る頃だろう。ここに居るわけにはいかない。わたしは扉を開けて、部屋を後にした。
 日差しが、重く注いでいる廊下に出ると、隣の部屋から物音がした。前を過ぎるときに、隙間から覗くと、オーキナが中に居る。わたしはそのまま立ち去り、西の廊下を歩いて、角を曲がった。多分、オーキナは、トムジの墓の前に居るのだろう。わたしは屋上に向け、廊下を歩いた。塀の境で、非常階段の樹に降り、そこを上っていった。
 トムジは――イチノヒの朝に、ウロで死んでいるのを発見された。囲炉裏を前にして事切れていたのを、ルミさんが初めに見つけたらしい。老衰だろう――と、オーキナが言っていた。ただ「そのまま動かなくなった」かのように、床に座った状態で死んでいたという。オーキナとは夫婦の間柄であったのを、そのとき本人の口から聞いた。その後、すぐにカツミが消え――オーキナにとっては、妻と孫を立て続けに失ったのだ。毎日のように、墓の前に居るのも、無理もない事なのかもしれない。
 ショウジン達が、一番最初に造ったお墓が、トムジの墓だった。そのあと、墓というものを初めて造った後、他のイチノヒに死んだ者たちの墓所が出来て行った。それらが済んで最後に、実際には何も埋まっていないミヨウヤの墓が出来た。ミヨウヤの肉体は、肉や皮や骨は、彼らにとっては利用されるべきものだったから、土の中には何も残っていない。やはり、記念碑のようなものだろう。彼らは外の森で、他の動物を獲り始めているが、ミヨウヤがもうマンションに上がって来ることはない。それを、わたしは知っている。
 二階から九階まで、腕を使って非常階段の樹を上って来ると、青々とした枝の隙間から、眩しい光が目を差した。夏が、やってきたのかもしれない。わたしは敷居を跨いで、廊下に出た。運良く、ショウジンは誰も出ていない。強い日差しを避けて、部屋の中で過ごしているのだろう。わたしは廊下を歩いて行った。青い空に、くっきりとした白い雲が見える。緑の森が地平線まで広がり――この高さから見れば、景色は何も変わっていないように見える。わたしが、ここに来たあの日から――わたしは、少し陰になっているエレベーターの木の前で止まった。縄梯子を引っ張り、木に入って昇って行った。
 暗い縦穴の、ヒンヤリとした洞穴から這い出ると、腕を掛け足を掛け、空の下に出た。雪のように白い日差しと争うように、庭園の草木が色を放っている。わたしは奥へ、歩いて行った。芝生の青いにおいが立ち上っている。花は一つも咲いていない。植木の間をずっと歩いても、抜けるような空の下に、芝と濃い緑だけがある。植え込みから、次の植え込みまで歩いて行く途中で、横を向いて柵の方を眺めると、峰のような白雲が遠くにそびえていた。入道雲だ。ずっと向こうには、海もあるのだろうか。
 わたしは一番奥の、柵の際にあるベンチに座った。太陽はもう、西の向こうに少し下がっている。屋上庭園の木々の、エレベーターの一本杉の飛び出している梢の、その後ろの柵の、上空から、こちらに暑く光を浴びせている。わたしの目の前に見える全てのものの影が濃い。芝生の一本一本、柵の何条もの線、植木が、陰翳を強烈に際立たせて前に在る。あまりにはっきり、くっきりとしていて、それは別世界のものごとに見える。椅子に座っているわたしのリアリティは、透明な青い空のようなのに、今見える庭は、そこに合わない鑿を振るった彫刻のようだ。まったく、別のモノに見える。
 深い影で、鮮烈な夏の庭から目を離して、わたしは膝を上げて、椅子の上でくるりと回った。後ろには観測所がある。いや、庭に付け足された公衆トイレだ。ふんだんに注ぐ日光を浴びて、蔓草は旺盛に茂り、葉はかたち無く広がっている。ぼうぼうとした輪郭の便所だ。三か月ほど前まで――セレンが居たころは、彼女は枝葉を揃えていたのだろうか。ここも、時の流れに含まれ、流されて行っている。
 果たして――二人はどこに、行ったのだろう。二人は――セレンは死んだらしいのだが、それを知る者も居なくなった。カツミは多くを語らなかったし、あのときは、物事が逆巻く波の、打ち寄せるように進んでいった。わたしもそこを、過ごして行ったはずだが、十三日目までのことは、ほとんど記憶から零れ落ちている。セレンが消えた。トムジが死んでいた。ミヨウヤを打ち滅ぼした。酒宴。死んだショウジン達。オーキナの話。カツミの言。わたしが耳にした諸々の会話。色。音。確かに「何か」はあった。色々な事があり、ショウジン達は後からそれを思い出して、順番と名前を付けた。でも実際は、そこに前後の区別は無かった気がする。「体験」は、十二日間の事だったのか、一瞬の出来事だったのかも、分からない。部分と全てが、一つのものだった。きっと、十三日目に潮が引いたのだ。潮が引いて――浜辺にはわたしと瓦礫が残っていた。大事なものは、ほんとうにあったことは、全部海に引き攫われてしまったのだ。カツミは――きっと、セレンと一緒に、わたしの居る世界から消えたのだ。
 森に浮かぶ白い雲を見ながら、風を感じていた。わたしの周りを、風は動いているようだけれど、ちぎれた雲は遠くで動かない。このマンションのこと、ショウジン達のことは分かる。でも、外のことは分からない。川は流れているのだろうか。どこかに、湖があるのだろうか。この延々に続く森の、空の際まで行けば、海もあるのだろうか。庭から見えるのは、一面の森と空――小高い丘に、雲がひとつ影を落としている。
 さわさわさわと葉が揺れて、向こうから風が渡ってきた。わたしはエレベーターの木の、梢の方を見遣った。ルナは、まだ来ないのだろうか。夕方より前、彼女はいつも屋上に来て、樹木に水を遣る。日は降りてきて、風も涼しくなって来た。そろそろ、彼女も上って来るだろう。梢のテントの合間から。女の子の姿がちらりと見えるのを待つ。ただ、わたしの側にいて、頷いてくれる人が欲しい。
 風が吹きつけ、雲が流れて行った。庭にある影も、長くなって来たような気がする。真っ青だった空も、寂しい色になってしまった。ルナはまだ、やって来ない。じきに空が染まり、日が暮れてしまう。わたしは思い、迷ったけれど、下の階に彼女を探すために、椅子から立ち上がった。どこで、何をしているのだろう。出来れば、この場所で、誰からも侵されないこの庭で、何も言わない鏡に向かうように話がしたい。ショウジン達のひしめく下の世界に、交じりたくはない。わたしはエレベーターの木の方に、ゆっくり歩いた。それでも――何か目的があれば、それを目指している間は他のことを忘れていられる。些細なことでも。今のわたしには、見える分だけ、どこにも行くところが無い。
 縄梯子を伝って九階に降りると、ルナがどこに居るか考えた。まだ二階の部屋に居るのだろうか。彼女は八階に、ルミさん達と一緒に暮らしている。でも彼女は、わたしのところに居なければ、オーキナの住む九階の東のウロによく居るらしかった。そちらに行ってみようかと、わたしは廊下を歩きだした。森の櫓のような非常階段の樹の天辺を越えると、東の空が延びている。太陽が離れて、少しずつ藍みが増している。
 端から二番目の、ウロに入った。他のショウジン達の部屋と違い、間口に何も無いので、廊下から中が見える。部屋に入って見回してみたが、誰も居ないようだった。オーキナの部屋は、以前とあまり変わっていない。床に蔓草が蔓延り、壁に毛皮がぶら下がっている。奥に甕と壺が置いてあり、隅には長い槍が立てかけてあった。ベランダの窓からは北の森がよく見えた。物音も聞こえず静かだ。まだ、トムジの墓の前に居るのだろうか。
 わたしはオーキナのウロから出て、廊下を歩いて階段の樹に降りた。空の階調を辿るように、大樹を下りて行く。八階のルナの住居に寄ろうかと思ったが、先に二階を探すほうがいい。通り越して、二階を目指した。八階の廊下には誰も出ていなかった。七階にも、人影は見えない。運がいい。皆、夕食の準備でもしているのだろう。
 二階に降りるまで、結局、誰とも会わずに済んだ。わたしはオイイの花の中を行き、廊下を右に、東の方に歩いた。空の色は変化して、建物の雰囲気も変わっている。夕刻あたりの風が涼しい。廊下の端に着くと扉を動かして、わたしの部屋を眺めた。机の上の陶器のコップ、いくつも吊り下がっている土鈴、座布団や枕のような物。台の上のわたしのリュックが、こちらに向いている。手前の水の入った鉢には、花がぷかぷか浮かんでいた。誰も居ない。部屋の日影の外では、鳥が鳴いている。わたしは部屋を出て、扉を静かに閉ざした。
 扉を閉め、振り返ると、水色の空に雲が薄く引かれていた。林の梢が穏やかに燃えている。空の端は染まっているだろう。わたしは廊下を歩いて行った。非常階段の樹に行く、境の前で立ち止まる。緑の葉の表面が、右端からきらきらと黄金色に輝いていた。ルナは上に居るのだろうか。彼女は、しかし、家族と居るのは好きでは無さそうだった。わたしの所に居るのも、オーキナの所に居るのも、そういうことだろう。ルミさんと旦那さんの間は、あまり上手くは行っていないようだった。兄弟も、「頭のおかしい」彼女とは距離を置いていた。わたしは顔を振り向け、廊下を先に歩いた。エレベーターの木の前で曲がり、廊下を西の方にどんどん歩いた。角を曲がった瞬間に、眩しい光に包まれた。廊下も塀も、輪郭も定かでないほど、暖かい橙の陽で満たされている。ちょっと、浮かんでいるような気がした。わたしは、ほとんど手探りするような気分で、眼を細めて西の端に進んでいった。一番奥の、ミヨウヤの墓の部屋から探す気だったのかもしれない。そこまで行く束の間に、女の子が、一番奥の部屋から出て来るのが目に入った。わたしは廊下で立ち止まった。じっと彼女の姿を見る――ルナだった。
 ぼやっとした廊下に彼女は出ると、横を見て、わたしの姿を認めたようだった。彼女は数歩歩いて、わたしの前に来た。何も言わないで立っている。わたしは言った。
「どうしたの、ルナ。お墓なんかに来て」
「うん」
 わたしは、わたしを見ている彼女の瞳をじっと見た。
「なんで上に来ないの。いろいろ探しちゃったよ」
「うん」
 彼女のしぐさを、表情を眺めた。ルナもわたしを見つめている。何を言いたいのだろうか。何をしていたのだろう。
「何をしてたの?」
 彼女はぼんやりと此方を見つめ、わたしの目を見ていると、とことこ歩き出した。わたしの脇を通って、廊下を角の方に向かう。わたしは彼女のあとを付いて行った。桃のシャーベットのような明かりを受けて、視線を遮られた角を曲がると、ルナはゆっくり廊下を歩いて、東の方に向かった。黙って後ろに付いて行きながら、廊下の上の空を眺めた。夕闇に、オイイの花が寂しく咲いている。
 彼女は階段の樹に降りて、両手で枝を攫みながらゆっくりと登って行った。少し後ろを、わたしも屈みながら登った。薄暮の光は、階段の樹の底ではいっそう幽かで、草も木も、目の慣れない陰のなかに沈んでいた。一つ一つ攫む枝が、しじまの中で、人に触れられ怯えている感触が伝わる。ルナとわたしが枝を分ける音が、響くように聞こえていた。三階を見下ろしながら、階段を上って行った。廊下の洞穴から、薄明かりがチラチラと漏れている。中で火を焚いているのだろう。宵の口に火影が交じっている。四階の塀のそばを通り、さらに階段を上って行った。仄仄とした廊下には、誰も歩いていない。煙も、見えない――しんとしている。ぽつぽつ並ぶ、ともしびを横にしながら、階段を上ってゆく。赤い、紫色の空のなかに居ると、すぐ脇にある灯の点いた廊下が、「ここ」とは違う場所に思えた。わたしは、少し前を動いている、小さい影のような彼女に目を遣った。彼女は一つ一つ階段を上って行った。一つ一つ――やがて、塀の脇の通路から、彼女は廊下の切れ目を抜けて行った。わたしも後から、境を跨いで廊下に出た。
 五階の廊下は、誰も住んでいる人が居ないために、右も左も、薄闇が続いていた。わたしは右に歩き出し、塀の外を眺めた。空には、微かな星が見え始めている。わたしと彼女は、虚ろなウロの前を、ひとつ、ふたつ、通り過ぎて行った。廊下の足元には、風が這うように吹いている。通路に滲む陰を分けるように進んで行くと、わたしの先にいる彼女は――立ち止まった。彼女の前には、黄色いドアがあった。周りの木と土よりも、星の増えてゆく空の方に合っている、黄色い鉄のドアだった。
 わたしの耳は道路を走る車の音を聞き、目は鉄筋コンクリートの灰色の世界を見ていた。それは――もちろん気のせいで、実際には、夜に紛れようとしている蔓木の廊下があった。でも、視界の鮮やかな黄色いドアは、目の前の風景に「別のもの」を重ね合わせていた。わたしは、瞬きをした。塀の蔦、縁の影に生えている羊歯、息を吸うと、もう、そこには違うものが重なった。透かし紙を重ねたように――外には、「紺色の空」が見える。「二重のような廊下」。目の前の黄色いドアだけが、まったくぶれが無く等しい。その前には、青い洋服を着た彼女が立っていた。
 彼女は、黄色のドアの把っ手に手を掛け、静かに引いた。隙間が少しずつ広がって、ドアの白い裏側が見えた。中で明かりが点いているようだ。廊下の幅を塞ぐくらい扉が開くと、彼女は裏側から此方に回って、スチールのドアノブを後ろ手で押さえた。
「うん」
 彼女は言った。わたしは、そこに重なる声を聞きつけ、部屋の中に入って行った。
 わたしが入ると、彼女も部屋の中に入り、扉を閉めた。中は一様に明るかった。天井に埋め込まれた白い電球が、コンクリートの壁と床を均一に照らしていた。わたしは、部屋の真ん中に向かって行った。彼女が後ろから付いてくる。わたしは、コンパスの五つ置いてある、ガラスのテーブルの前に来た。テーブルの脚は、影も無く、どの部分から接地しているのかも分からない。床との境目を見極めることは出来なかった。透明な天板の上には、五つのコンパスが置かれていた。赤く塗られた針の向きは、二つがぴったり揃っていて、他の三つはばらばらだった。90度ずつ、他の方角を向いている。テーブルの上には黒い箱も置いてあった。升のような箱の中は、空っぽだった。
 わたしは振り向いて、部屋の後ろを見た。片隅に、台のような木の椅子があり、銀の水時計が置かれていた。紫色の水はガラスの中を伝い、ゆっくり下に落ちて行った。わたしは、隣に並んでいる彼女を見た。
「うん」
 わたしは、五つのコンパスの、赤い針がこちらを指しているものを見た。それを黒い箱に入れれば、向こうの世界に戻れるのだろう。ベランダに日が当たり、洗濯物の下げられるところへ、灰色の世界へ、夢から覚めるように行けるのだろう。
 水が落ち切ったのか、ネジのきりきりと回る音が部屋に聞こえた。時計は逆さになったのか、少しすると音は止んだ。わたしは、赤い針が向こうを向いているコンパスを見た。そのコンパスは鏡に映したように、まったく同じものが隣に並んでいた。そのどちらかが、今まで箱の中に入っていたコンパスだった。ルナが――彼女が取ったのだろう。それを脇に置いて、時計のネジを回し、わたしを呼びに来たのだ。
「うん」
 わたしは、赤い針が南を向いているコンパスを手に取った。それを黒い箱に入れることが、するべきことで、正しい事だった。わたしは、向こうの――もと居た所に帰るべきだ。そこでは、殆どのことが分からない。代わりに、ここに居れば全ての事が知れる。安らぎも――幸せも、向こうの世界では薄いだろう。目の前が、明るく開けているとは思えないけれど、それでも、そこに戻った方が良いのは理解していた。でも、わたしはこのコンパスを置けなかった。そういった考え以前に、ルナの――彼女の言うことが、わたしのこころに響いていた。
「うん」
 ネジがきりきりと回る。音が止んで、時計が逆さになったのを確認した。わたしは手に持っているコンパスを、脇に置いた。そして、赤い針が左を、西を向いている別のコンパスを手に取った。もう、戻って来られないかもしれない。ここにも、向こうにも。それを黒い箱に入れようとした束の間、そう思った。わたしはコンパスを、箱の中に収めた。ルナに重なっている彼女の声が、頭の中に聞こえていた。
「オマエが殺した」
 やがて、部屋の中はぐるぐると回り、わたしは立っていられなくなった。視界を、次々と飛んでいく世界に目が眩んで瞼を閉じたけれど、すぐに喉元に込み上げて来るものを感じた。わたしは、勢いよく吐き始めた。今まで身体の中に入れたあらゆるものが、開き切ったわたしの口から、噴流となって流れ出ているみたいだった。全部、外に出てしまうのだろうか――わたしは、気が遠くなりながら、わたしも最後に、ここから吐き出されてしまえばいいのにと思った。

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