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田口ランディ『ハーモニーの幸せ』を読んで 『私とアメリカ』

著者はアメリカの衰退(同時多発テロ事件)を目の当たりにして、アメリカへの憧れの気持ちを失ってしまう。

そもそも現実の生活とテレビの中の戦争、そのふたつが結びつかない。だから、なかなか当事者意識を持つことはできない。どうしても自分の現実の世界を優先してしまう。「私は私以外の誰にもなれないし、私は私の心から逃れることは難しい」のだ。

アメリカは早速対抗措置として、アフガニスタンに軍隊を派遣し、対テロ戦争が始まる。

世の中の正義の定義はひとつ(アメリカの正義)だけではない。テロリストにはテロリストなりの「正義の定義」がある。それを間違っていると果たして判断することが人間にできるのだろうか。

私は人の数だけ「正義の定義」があると思っている。それなのに、自分以外の正義を認めないでいいのか。また、認めるとしたらどこまで認められるのか。それは個人で判断するにはあまりにも重い問題だ。

人間は常識と考えている答えに従ってしまう。その常識を疑ってみることはせず、そこで思考が停止してしまう。きれい事の言葉では何も解決できないのはそのためだ。

「人間の生命とか、魂の問題になったときに、言葉は本当に使い勝手の悪いコミュニケーションツールなのだ。そのため議論は揚げ足取りに陥ったりする。」
選択肢が白か黒か「二元論で語る相手に意見を述べると、自分も二元論のなかに否応なく組み込まれて」しまう。そうなれば世の中は白と黒に分断され、お互いが争うようになる。

他人の「正義の定義」がどのような背景で出来上がったのか。それを理解するための知識が必要になる。正義を守ることが平和に繋がるのならば、人(国や人種、宗教など)は「正義の定義」の最大公約数を探す努力をしなければいけない。「正義の定義」に違いがあるならば、「平和の裏にはいつも戦争がある」状態はなくならない。

「未来は、それに向かって行動したことの結果として来る。」「この瞬間から来るべき未来に向かって自分の生き様を私が変えたとき、それが未来に繋がる。私が原因にならない限り、私の未来はない。」と著者は述べている。

思考停止に陥らず、問題の原因となっているものが何かを考え、その問題を解決するために自分はどんな行動をしなければいけないのか。これは人間が未来を生きていくうえで、いつも頭に入れておかなければいけないことだろう。

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