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凪良ゆう『神さまのビオトープ』を読んで2

<植物性ロミオ>

昔読んだ本を再読すると、イメージがまったく違うことがある。
人間として年を重ね、人間関係に熟練したせいなのかもしれないが、逆に人間の汚さを味わってしまったのが、その理由なのかもしれない。

人間はいつまで清純でいられるのだろうか。子供のうちは清純を求められるが、大人になると清純はただの愚か者と見なされてしまう。清純が通用するのは、芸術家やシンガーソングライターのような一部の人に限られてしまう。清純を維持していくためには、他の視線を無視できるほどの自尊心が必要なのだろう。

この物語の登場人物、金沢くんは大学生でありながら、小学四年生の秋穂ちゃんに恋してしまう。秋穂ちゃんは「恐れを知らないジャンヌ・ダルクのように」おませさんで積極的だ。

しかし、金沢くんも秋穂ちゃんの尻に敷かれているばかりではない。両親に反対され、「金沢くんと引き離されたら、私死ぬ」と包丁を胸に突きつけた秋穂に対して、優しい言葉で場を丸くおさめた。

ただ、金沢くんには小四フェチだった。そのうえ性欲に無関心だった。今の秋穂が好きなだけで、大人になっていく秋穂とは別れるだろうと、金沢くんはうる波に言い放った。

それは世間では許されない恋であり、正しくない恋で、罪にもなりかねない恋でもある。

そんな不憫な性格を背負った金沢くんは、幼稚ではなく、立派な大人だ。許されない恋、正しくない恋、傷つけない恋、そんなこといったい誰が決めるのだろうか。

確かに物事の判断力がまだ身についていない小学生を相手にすることは、倫理的にも問題はあるだろう。でも、好きになってしまったものはしょうがない。その「好き」に真摯に立ち向かう勇気を持てる人はどれだけいるのだろうか。

見方によっては、うる波だっていつ鹿野くんと別れるかはわからない。だからこそ今この瞬間が愛おしく感じる。金沢くんの期限付きの恋に真っ向から反対できる人はいないのではないか。

最後に秋穂ちゃんの放埒な(?)恋愛が示される。ロミオとジュリエットの世界はいまや遠い昔なのか。今の時代は「植物性ロミオ」と「動物性ジュリエット」しかいなくなってしまったのか。そんなことを思うと切なくなる。

<彼女の謝肉祭>

恋愛の形としては一番幼稚な恋愛をしている安曇と立花。幼稚な恋を引きずったままの二人のこれからは、うまくいくとは思えない。お互いに別々の人と結婚して、「本当は昔、あなたのことが好きだったのよ」、「なんだ、早くそれを言ってくれてたなら付きあっていたのに」。そんな会話が頭に思い浮かぶ。

デブと呼ばれたことに奮起して美女に生まれ変わった立花。それを遠くから近くから見守っていながら、恋心に気づいていない安曇。ありふれた物語といえば、これほどありふれた恋愛小説はない。

そんな物語を色づけているのが、うる波と鹿野くんの二人。この小説集の中で、幽霊の鹿野くんの存在が一番際だってみえる。それは鹿野くんと安曇が似ているからかもしれないが、お互いが自然に向きあっているところが大きいのでは。

二人の行く末を考えながら、うる波は鹿野くんとの将来を考える。本当は生きていてほしい鹿野くんとの平凡な生活は、いつ終わるかもしれない予見できない関係だが、それはすべての人にも言えるものであり、うる波が今の生活を幸福と感じていることに意味がある。

「もともと幸福にも不幸にも、決まった形などないのだから」、自分の幸福は自分の腕一本で描かなければいけない。

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