なぜ、余計なことは言ってはいけないと私たちは教育されてきたのか?
小さいころから、親にこんなことをよく言われた。
余計なことは言わなくていいんだよと。
何か親にとって都合の悪いことを、子である私が口走ってしまうからそんな私に親はいつも余計なことを言わなくていいとそう教育した。
この余計なことを言わなくてもいいという親の発言は、いつからか私の中で正直に思ったことを口に出していってもいいんだよという事を否定させる方向へと進んでいきました。
子供から大人になる過程で、親から言われた子の余計なことは言わなくてもいいんだよという教えは、私の中で少しずつ内面化されていきました。
そして、大人になった今の私は、完全に余計なことを言わない人間になった。そう言いたいところだけれど、以前の記事でも書いたように、どうやら私は完全KYの発達障害の部類にあたるらしく、思ったことや、気づいたことをなんでもその場で口にしてしまう。
私の親があんなにも私をきつく教育したのに、私の口は未だに思ったことを口にしてしまう。
余計なことを言うな。これは私にとっては、自分を表に出すな!と言われているのに等しい。
ありのままの自分で生きてはいけないとそういわれているのに等しい。
親はいつでも、私にありのままで生きることはいけない事だ!自分を偽れ!と教え込んできた。自分を偽り生きていかなければ、この世界では上手く生きていくことなど出来ない。これが親がずっと自身の中で貫いてきた生き方だ。
でも、それがどうして私にとっても同じように大切なものといえるのだろうか?人は皆それぞれ違う。なのに、親は自分と同じ型を私に押し付けようとした。
今考えると、幼いころの私は本当に生きづらかったのだと思う。
まあ今も自分をさらけ出して生きた所で、自分の居場所などなく苦しいという意味では同じなのだけれど。
余計なことは言わなくていいの、人が迷惑するから。変なことを口にしなくていいの。相手が困るから。この言葉の繰り返しを受けて、私はどんどん何も口にしなくなっていきました。
でも、そんなことをしていたら、自分がいっぱいいっぱいになって、私の心は内側から壊れていきました。
余計、余計とそう言われるたびに、私の中から激しい怒りがこみあげてくるようになりました。
余計、余計といわれるたびに、自分という存在を丸ごと否定されているような気分になりいてもたってもいられなくなりました。
こうしたことは社会に出ても全く同じでした。社会に出ても、余計なことは言うな。相手の逆鱗に触れるようなことは言うな。そういつも私は言われていました。
もう少し、自分の在り方を見つめ返した方がいいとも言われたこともあります。やはり、ここでも、私の性格を外部の人間はきつい、きついと批判しました。
私は未だにわかりません。なぜ、本当に思ったことを言ってはいけないのか?なぜ、そうしたことが余計なことなのか?
本当のことは余計なことなのか?口にしてはいけない事なのか?
最近の私の悩みはこの一点に尽きます。
誰かこの事についてお話いただける方がいたら教えてください。
本当のことを隠し、苦笑いしながら、互いに傷つかない距離を保つ。そして、それぞれの人間が皆、互いに忖度しあって生きていく。これが本当に幸福なあり方なのか?私にはわかりません。
何故、それが私にはわからないのでしょうか?それは私が発達障害だからですか?私が相手の事を思えない人間、愛のない人間だからなのでしょうか?
本当に誰かわかったらこの答えを下さい。
忖度しあいながら、偽りの笑みを浮かべて、自分に嘘をつき続けて生きる。これを真なる幸福と本当に皆は思っているのでしょうか?
余計なこと、余計なこととそう言われますが、それって本当に余計なことなんでしょうか?
何をもって彼らは、余計なことと私の口にすることを定義しているのでしょうか?私には全然わかりません。
余計なことを言わなくていいとか、相手の逆鱗に触れないように生きろ!とか、何にみんなそんなに怯えて生きているんでしょうか?
相手の逆鱗に何故、触れてはいけないのでしょうか?そこに逆鱗がある。ならば、その逆鱗に触れてみたくなるというのが、私の心理です。確かに逆鱗に触れれば、それは相手の怒りに触れることになり、こちらとしては大きな損失を招くことは確かです。
でも、その逆鱗に触れずに、つまり、ずっとその逆鱗を回避するように、生きていくのは私は辛いと思うんです。いつでも、その逆鱗に触れないように、びくびくしながら生きていかなければいけない。常に、その人の顔色を伺って生きなければいけない。それで、本当にみんなが幸福なんでしょうか?以前、私には謎です。
私はじいちゃんに怒りは悲しみから来ると教えられてきました。
人が激しい怒りを面に表出させる時、その人の心の奥深くには、どうにもならないくらいこれまた深い悲しみがある。つまり、怒りとは悲しみの表現なんだ!と。
だとしたのなら、むしろ私たちは勇気をもって他者の持つ逆鱗に触れることをしなければいけないのではないかと思うのです。
逆鱗とは、その人に刺さった心のとげみたいなもの。だとしたら、その悲しみのとげを私たちは抜き取ってあげるべきだと思う。
確かにそのとげを軸に自らを形成している訳だから、そのとげを取ってしまえば、食らうダメージは計り知れないかもしれない。でも、それで、その人が真に救われる、その人の悲しみがそれでいえるのなら、その逆鱗に依存しなくても生きていけるようになれば、その方が私はいいと思ってしまいます。
いつもヒヤヒヤして誰かといるよりも、そんなものは何もないフラットな状態で人と向き合いたい。私はいつでもそう思っています。
誰でも、触れられたくないポイント、逆鱗はある。でも、その逆鱗に触れることなくして、わたしたちに真なる変容はけっして訪れることがないのだと私は思っています。
千ははくの逆鱗に触れた。そこにはとんでもない恐怖があったはず。でも、彼女は、はくを救いたい一心で、苦しみ嫌がるはくの口ににがだんごを押し込んだ。
私にはこのシーンがまさに他人の逆鱗、心の奥深くに沈めた心の傷に触れるものだと思います。相手を理解し受け入れる。この行為の前には、わたしたちは、せんが見せてくれた様な恐怖もいとわずに、相手の中に入っていくという勇気を持たなくてはいけないと思っています。
相手の心の深い部分に入る。それが出来るのは、本当に心からその人を大切に思う事が出来て初めて達成することが出来るものだと私はそう思っています。
私もマネジメントの仕事をしていますが、本当の意味で相手の心の深い部分に入っていくという事は、痛み失くして達成は出来ないと常々感じています。相手を知り、理解するという事は、その相手の負っている傷、それを共に背負う事、共に傷だらけになるという事なのだと心からそう感じています。
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