広島弁のFragment
「まだやっとってです?」
21時すぎに扉を開けた、裏通りの小さな居酒屋。食べログで評判が良いけぇ来たんじゃけど、BGMもほとんど鳴りよらんし、表には「ただいま休憩中」の札が置きっぱなしになっとる。何しろどこへ行っても感染症対策のご時世で、わたしが暮らす都会ではまだ時短営業をしている時期だった。
「はいはい、1名さんね。そこへどうぞ」
このイントネーションを、どう文字にすれば良いんだろう。関東だったら恐らくそ↑こ→へ↑、と言うところを、この地域の人はそ↑こ↓へ↑、と真ん中が上がって、少し歌を唄っているようになる。
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さっきのタクシーの運転手さんとの会話も、
「近ぅてすいません、加古町の広島市文化交流センターなんじゃけど」
「はぁ、今日は何かイベントがあってんかね」
「イベントはあるかわからんけど、わたしは出張で泊まることになりよって」
この全てが、ここ15年使っていないイントネーションであることが、内心で嬉しくてたまらない。わたしがまだネイティブであることを確認しているのかもしれないし、大好きな祖父が話していたのと同じイントネーションがまだ生きてわたしの中にあることに喜びを感じているのかもしれない。
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でも、恐らく正確にはわたしは広島弁のネイティブではない。2才から10才まで過ごしたのは、関西にあるベットタウンだった。わたしは滋賀と京都と神戸と大阪が入り混じった関西弁を話していたと思う。
ただ、両親・祖父母みんな広島の人ということもあり、家の中で関西弁はそれほど多くは話されていなかったように思う。それに、春休みや夏休みの度に1ヶ月近く広島で過ごして、休みが終わる頃になると少し広島弁が移り、でもまた関西に戻れば関西弁を話す生活をしていた。
母が広島に帰ると生き生きと広島弁を話すのが、少し遠い存在になったような、でも水を得た魚のように話しているが嬉しいような、そんな風に見ていた記憶がある。
そういえば、小学校3年生くらいの時、国語の教科書に出てきた「しんぺいちゃん」という登場人物のイントネーションをどうしてもみんなに合わせることができなくて、音読をする度にクラス中がどっと笑っていたのを覚えている。関東での生活がすっかり長くなった今では、関東ではどうで、関西ではどうで、広島ではどう発音するのが"正しい"のか、もはや全然わからないのだけど。
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10才で大阪から広島に転校したことは、子どものわたしにとっては大きな出来事だったように思う。しばらくは布団の中で毎晩泣いていたことを覚えている。ただ、関西では転出入が多い小学校にいたので、自分もあの中の一人になるんだ、離れるときは寂しいけど、すぐにお互い別の生活が始まるよね、という慣れと諦めのようなものもあった。
小5で転入した広島の小学校では、ニュータウンに滅多にいない、それも都会から来た転校生としてちやほやされた。幼稚園から中学卒業まで同級生が固定化する中でしんどい思いをしている人もいたようだが、比較的関係性が安定していたクラスにわたしは転入した。その時のわたしは事あるごとに「関西から転校で来て」と言っていた。
受験して入った中学校でも、「卒業したのは広島の小学校だけど、幼稚園から5年生までは関西にいました」と二言目には言っていたように思う。この要素をなくしてしまったら、自分ではないような気がしていた。そこから、関西弁を由来とするあだ名もついた。
「すぐ関西関西って、なんなん?」
とある同級生にそう陰口を言われていることを知ったのは、中1の夏頃だったと思う。あ、小学校で使えたパターンはここでは使えないんだ、と思った。そりゃそうか。みんな受験して、地元から切り離されて入学している訳で。中には広島県東部や山口県から高速バスで1時間以上かけて通って来ている同級生もいたし、島根県の実家を離れて姉妹と下宿している同級生もいた。その中にあって、わたしが10才まで関西にいたことは、今そんなに大事なことだろうか。
それ以来、関西の話をするのはやめた。陰口を叩いた同級生とたまたま同じ部活に入り、彼女が小学校低学年まで関西で育ったことを知ったのは、それから数年後のことだった。
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14才の夏に、わたしは広島を故郷と決めた。受験して入った中学が面白くて仕方がなくて、ここが自分の居場所だ、と思った。部活だか補習だかのために学校に向かおうとしていた夏休みの昼下がり、バスを待っていたわたしは真っ青な空と、子どもの背丈ほどにぐんぐん育った雑草が公園の入口を覆い尽くしているのをぼんやり見ていた。その時に、多分あのまま関西に残ったわたしがいたとしたら、きっともう今のわたしとは違う人格だろうから、こっちの人生のわたしは広島を故郷と定めよう、と決めたのだった。
どうして今でも足繁く広島に通っているのか、自分でもよくわからない。大学進学を期に上京して、首都圏での生活が人生で一番長くなってもう10年が経つ。両親も転勤を経て東京で働くことになり、実家も5年前から空き家になっている。
それでも、テレビで広島弁が聞こえてくるとあっという間に気持ちがトリップしてしまう。広島へ帰ってきて、路面電車に乗ると堪らない気持ちになる。バス停で母校の制服を見かけるとものすごく動揺してしまう。
大学から上京すると決めたのはわたしの意思だけど、でもそれ以前に、わたしは居場所だと思えた中高一貫校を卒業したくなかった。母校を訪ねる度に、ここはもうわたしの居場所ではないと確認する。いつかは出ていかなければならなかったわたしの理想郷。
感染症が流行る前は、この街で生きていけるかどうか、旅行にいく度に考えていた。もしかしたらわたしは今でもまだ、理想卿を探し続けているのかもしれない。