#261 母の覚え書き
実家の両親が元旦に揃って誕生日を迎えた。
えっ⁉️と思われるかもしれないが、二人とも出生日の登録は元旦。昔は暮れに生まれていても届け日をお正月まで待った、なんていうことがあったと聞いたことがある。うちの両親がそうだったかは定かではないが、元旦生まれの二人が出会って結婚したということは『めでたい』偶然と言えると思う。
そんなわけで父は89歳、母が85歳になった。
去年の夏前の実家への帰省時、帰省ログを書き始めた。
こんなログを残していくことで、毎日巻き起こる騒動を笑いに変えていこうと思っていた。
ところがだんだん面白くなくなって、書けないと思った。
実家を発ってからも旅は続いたし、会いたい人に会えてとてもしあわせだった。日本は満喫しているのだが、タイプする手は止まったまま。
一緒に過ごしたひと月の間に、母の認知症の現実を目の当たりにしたのが正直辛すぎたのだ。そこに触れられなかったために、そこを飛び越えてシャラ~ッと旅行記は書けなかった。
実家に居た間、母は間違えないよう、笑われないよう、あちらを確認、こちらを確認と必死だった。失敗しないように準備することに余念がないが、同じ流れで順当に忘れていく。預かったものの行方がわからなくなる。人さまに迷惑をかけたと落ち込む。
一人でよく泣いていた。
本人の必死な思いと真剣さが手にとるようにわかるので、私のエモーショナル度数計は右へ左へ目まぐるしく動く。エモさ満載で、母の心に癒やしアプローチをすれば、もう忘れているので「は?なんのことや」とバッサリ斬られる。
振り回される私も心が疲弊していった。
これまでの母と同じ人でありながら、もう辛い時に心を絞り出して泣ける相手でも、人生の機微を語り合える相手でもなくなったことを感じた。
母はもう唯一無二の理解者でも親友のようでもないところへ行ってしまった。
その頃の母は「私なんてもう生きてる価値もない」「死んだほうがマシや」という言葉をよく口にするようになっていた。
私の滞在中に母の日がやってきた。
泣きながら母への手紙を書いた。
そんな内容を長々と綴った。ベタな言葉だけれど、これは『覚え書き』だから、と思って書いた。
「何回失敗してもいいから失敗の度に読んでほしい」と母に伝えたら、その後「忘れないように」とその手紙をAからBヘ、BからC、そしてAへと目まぐるしく保管場所を変えていた。今しがた自分のしたことが心許なくなるのだろう。絶対に忘れたくない母の想いが伝わって、また涙が出た。
私が居た5月の終わり、二度目の認知症検査を受けた母は、どこにそんな余力があったのか、気合いで『認知症ではない』得点を叩き出した。
(ちょっと張り倒したくなった💦)
あれから半年以上が経つ。
いつも行くAストアからの帰りの道がわからなくなって、どれだけの間彷徨ったのか、帰りは買い物袋を地面に引きずって戻ったという。上がり框に座った途端、堰を切って泣き出したのだと父から聞いた。
今では母の認知症の診断は下っている。最近ではレビー小体型認知症と診断された父との共存だ。
すぐに飛んでいって抱きしめたい思いに駆られないと言えば嘘になる。
私にできることは電話越しで父と話し、母と話すこと。インターネットならどんなに楽か、と言ったらキリがないけれど、イギリス⇄日本で固定電話で繋がって一時間でも話していられる現代がうれしい。(昔は国際電話は泣きたいほど高かった)
母への覚え書きはどうなっただろうか。
電話で、「母の日にプレゼントしたフレンチラベンダーの鉢、直植えした?」と訊いた時、もはや母の日に私が居たことも、鉢植えがあったことすら憶えていなかったので、私から母への覚え書きはもうあったことも忘れられている可能性が高い。
そんな現実を寂しいと感じていてはいけないのだと思う。
両親の老いに関しては、呆れたり、嫌悪したり、腹が立ったりしてしまうものだ。義家族に対してはもっと冷静でいられるのに‥‥ 肉親に起きていることはどうしてこう心が揺れるのだろう。側にいる家族にはなおさら綺麗事じゃない大変さがあることだろう。
一日に何度も母から同じ買い物リストを持って来られる、別棟に住むお義姉さんはたまったものじゃない筈だ。
母は毎日そうやって食べるものの『覚え書き』を産出し続ける。
「ごめんなさい」
こんな両親の側に居てくれる人に向かって手を合わせる。
側に居ない人間が「生きていてくれてありがとう」ということが、どんなに勝手に聞こえるか、わかっているけれど、
今日も生きていてくれる
それが私を大きく支えてくれている。