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【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~#47

10 四境戦争(3)

 そのころ広島にいた老中松平伯耆守は、宍戸備後助と楫取素彦を開放して返してきた。休戦についても仲介先の岩国藩主から伝えられたが、相手の真意がわからないとして、木戸たちの判断は戦闘状態の維持をしていた。
 芸州口については大野を攻めたり、幕軍の勢いを凌ぐため玖波まで退いたりという状態が続いていた。
 
 そんな折、広島から使者がやってきて、安芸藩は長州が国境内に退くのならば、広島城下から公儀の退去をさせたいという提案をしてきた。
 広沢と楫取が交渉をして、実際に長州国境内に退いた場合、幕軍が進む前に安芸軍が間に入り進路を塞ぐという協約を取り決めた。
 
 聞多と御堀も安芸からの提案を検討する会議に参加した。
「やはり攻略すべきは大野ではないかと」
 御堀が地図を指し示した。
「わしとしては、岩国が戦場になることだけは避けたい。最終的に岩国の先で陣が維持できることが条件じゃ」
「それは大丈夫かと」
「となれば、搦手で宮内を取りに行くかの。大野がうまくいかんでも宮内で幕軍を分断できる」
「それしかないですな」
「これで終いにしたいの」
「弱気だけは駄目ですぞ、井上さん」
「よし、これで行く」
 
 その結果一度戦闘を行い、押出して戦果を上げた上で、この協約通り退くことにするべきだと決定した。
 そのため、芸州口の軍は三手に分かれて、玖波、松原、明石口から大野と宮内を攻略することにした。
 
 ただし作戦前日から暴風雨に見舞われた。玖波と松原から大野を目指し奇襲をかけ進軍した。しかし悪天候の中、強固な相手の守備を崩すことは出来なかった。
 一方の明石からの宮内への攻略は成功した。山間道を迂回し、宮内に向かった。まず山上にある相手の砲台を潰した上で、臼砲で榴弾を打ち込んだ。
 次は慌てる敵兵に対し散開したミニエー銃をもった歩兵が射撃を行う。くしくも、暴風雨を味方につけることができた。暴風雨の音は銃声をかき消し、銃口の光は雨が隠してくれた。こちらの射程の長さが相手が気づく前に射撃を可能にしていた。相手が気が付いた時には、打たれることになるのだ。

 武器の力と部隊の判断力の差も大きく、長州軍は結果的に攻略をすることに成功した。大野攻めは必ずしも成功しなかったが、結果として長州側が宮内を攻略できたことで、幕軍は背後を遮れられ、大野の陣地が孤立して維持できない、と考え放棄せざるを得なくなった。

 雨の中糧食も不足するところ、幕軍の放棄した荷を得て、体力を保持しないといけない状態でもあった。その中で相手に背を向けざるを得ない退却戦は、困難を予想されたが聞多は指揮を取り、無事に完了することが出来た。
 長州の軍は自国国境上まで下がり、間に芸州軍が入り遮断に成功した。これで、芸州口の戦闘も終わることになった。

 そして安芸藩は朝廷への長州復権の斡旋をする盟約を結ぶことになった。

 小倉口では高杉が艦船行動と騎兵隊の上陸作戦を行った。対する幕軍には総督として老中小笠原長行が派遣されていた。高杉は艦砲射撃と上陸作戦を組み合わせ、時期を見て退くという戦術で相手を翻弄した。また海流を利用して大型船にゲリラ攻撃を行ったりもした。
 幕軍は統率が取れておらず、肥後藩はやり方に腹を立て軍を引き揚げてしまい、これに各藩も続き、結局小倉藩は孤軍奮闘に耐えられず、城を焼くことにしてしまった。

 戦の最中というのに、何故か幕軍の総督老中を始め司令官たちは、戦線を放棄して船で長崎に行ってしまった。よくわからない事態が生じたまま小倉口も終了した。

 その戦闘の中、晋作が倒れた。血を吐き、労咳が明らかになり、病状も悪化していった。
 聞多は晋作から文を受け取った。風邪が悪化して寝付いてしまったというものだった。
「こんなに下関は遠かったのかの」
 岩国辺りに陣を張ったまま動けなかったため、西の空を見ることしかできなかった。

「最後に会うた時には具合いは悪かったんか」
気が付かなかった不甲斐なさと、止めても無駄だということが頭を駆け巡っていた。斬られたとき見舞ってくれた、手の温もりがよみがえってきた。出来るのは、下関にいる俊輔に自分の分も合わせて、元気づけてくれと文を書くことだった。

 動けなくなった晋作は軍の司令を辞任し、文と鰹節を送り激励をすることしかできなくなっていた。福岡に行っていた時知り合った望東尼が、病状をきいて見舞いに来ていた。晋作はその望東尼に上の句を歌った。
「面白きこともなきよに面白く」
「すみなすものは心なりけり」
 望東尼が下の句をつけた。
「高杉様、すべてはお心次第でございます」


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