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【映画レビュー】『サイダーハウス・ルール』:傷を抱えた人たちに注がれ続ける温かいまなざし

 1999年の公開時(なんと25年前…)に劇場で観て以来、久々に観直した。
 前半の舞台は、産婦人科と孤児院を兼ねる施設。
 その産院にやってくるのは、普通に出産をする女性だけではない。望まぬ妊娠をしてしまって中絶をしにくる女性もいる。なかには、出産した子供を育てられずに、孤児として施設に残す場合もある。
 さらには、そうした孤児のなかから自分たちの養子にしたい子供を探す夫婦もやってくる。そのたびに、孤児たちはそわそわして、引き取ってくれるのを待ち望み、引き取ってもらえなくては、がっかりすることを繰り返す。
 主人公は、そこで孤児とした育った青年である。青年は、孤児たちのお兄さん的存在である。院長に仕込まれて、なんと医学の知識と技術も身につけ、その施設に欠かせない存在となっている。
 しかし、やがて彼はその施設を出て、外の世界を見たいと考える。そこで行きついたので、リンゴ農園(サイダーハウス)であった。そこにも、苦しみを抱えながら生きている人たちがいた…


観終わった後どうしてカタルシスに包まれるのか

 ラッセ・ハルストレム監督の映画は、観終わった後、いつも静かな感動とカタルシスに包まれる。
 なぜなのだろう。ものすごくドラマチックな話があるわけではなく、どちらかというと、人々の生きざまが俯瞰的に淡々と描かれる。
 ラストにどんでん返しがあるということもなく、だいたいは、このまま時間や人生が続いていくのだろうなという感じで終わる。
 それでも、いつも見終わった後に、胸を締め付けられるような、それでいて、とても静かで優しい、不思議な気持ちになる。言い表そうとすると、「カタルシス」という言葉くらいしか思いつかない。
 今回見直してみて、どうしてそういう気持ちになるのかが、少しわかった気がする。
 それは、登場人物たちみんなに対して、とても温かいまなざしが注がれているからではないかと思うのだ。

苦しみや傷を抱えた人たち

 ハルストレムの作品に出てくる人たちは、何かが欠けている人たちが多い。苦しみや悲しみを胸に抱えた人、心や体に傷を負ってしまった人、虐げられる人、差別される人……。外から見れば不幸に思えるが、それでも懸命に自分の人生を生きようとしている。
 この映画に出てくる人たちもみんなそうである。
 中絶をしなくてはいけなくなってしまった女性。当時はまだオープンに中絶をすることができず、闇医者みたいなところで、ボロボロに傷つけられる女性もいた。
 そうした親が育てられずに捨ててしまい、孤児になった子供たち。彼らにとっては施設の中が世界のすべてである。
 そうした施設を運営するうちに、エーテルの力を借りなくては眠りにつくことができなくなってしまった老産科医。
 季節労働者として、リンゴ農園で働く、黒人や移民たち。彼らは貧しく、すさんだ心になる一歩手前のギリギリのところにいる。

注がれ続ける温かいまなざし

 彼ら、彼女たちの姿を、愛おしい人たちとして私たちに見せてくれる。そこにとても温かいまなざしが注がれていることを感じるのだ。レンズは、彼・彼女らを、そっと優しく、忘れることなく「ずっと見守っているよ」と語りかけるかのように、ずっととらえ続ける。
 リンゴ農園では、信じられないような事件が起き、この映画の鍵となる大きな事件となるが、それについてはここでは触れない。映画を観てほしい。そのおぞましい出来事にさえ、映画は見捨てることなく、温かいまなざしを注いでいるように思える。
 それこそが、ハルストレム監督作品を観終わった後に、静かに優しく、それでいて熱く胸をかきむしられるようなカタルシスをもたらしてくれる源泉なのだと思う。 

サイダーハウス・ルール

 「サイダーハウス・ルール」というのは、外の世界に出ていくことを選んだ主人公の青年がたどり着いた、リンゴ農園で働く季節労働者たちに示された規則のことである。
 それは使用者が労働者を管理するために押しつけたルールであるし、そもそも字の読めない労働者たちには意味がないものであった。
 労働者たちは、暴動を起こしたりはしないが、そのルールを書いた紙を焼き捨てる。静かに、それでいて力強く、自分たちの怒りと意思を示す。
 そしてその姿をも、やはり、温かく見守るように映し出す。
 そのまなざしはどこまでも優しく温かい。


 主役の三人、トビー・マグワイヤ、マイケル・ケイン、シャーリーズ・セロンが、とても素敵です。
 それだけでなく、子供たち、施設の看護婦、季節労働者たち、みんなが愛おしく素敵です。
 ハルストレム作品に出てくる人たちは、みんな素敵なのです。


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