【映画レビュー】『水深ゼロメートルから』:露わな二本の脚が投げかけてくるもの
チラシやポスターを観ると、女子高生たちの二本の脚に目が行く。形がいいとか、すらりとしているとか、そういう美的対象としての脚ではない。生々しくむき出しになった、加工されていない生の肉体としての脚である。
自分がそこにエロスを感じていない自信はない。それは、最初に自白しておく。どこまでがエロスでどこからそうでないかを線引きするのは難しい。
ただ、しかし、この映画は、そんな言い訳など吹き飛ばすように、二本の脚が「女らしさ」の視点で見られてしまうことに挑む。ひと言でいうなら、それがこの作品の主題だといってもいい……
演劇調の閉じられた世界からカタルシスへ
この作品、もともとは高校生の演劇だったものを、映画化したものだ。
登場人物は、ほぼ数人の女子高生のみ。そのほかは、先生と男子高生が少し出てくるだけである。舞台も、水がないプールからほとんど動ない。かなり閉じられた世界だ。
そんな舞台で女子高生たちの話すセリフも、どこか硬く、演劇調である。
もともと演劇だったからといえばそれまでだが、あえてその枠をはみ出さないようにしているようにも思える。
最初は、この調子で映画として大丈夫なのかと、少し心配になった。 それが最後に近づいていくにつれ、カタルシスにたどり着いていった。ああ、山下敦弘監督の作品だなと思った。山下監督の真骨頂が発揮されている。
「女であることを」めぐる理知的なやりとり
映画に出てくる女子高生たちは、はっきりものを言う。演劇調だからかもしれないが、理が勝っている感じだ。「何でも言い合ってよい」というルールのある議論を見ているようでもある。
あまりにズケズケと言い合うので、見ていて、決定的な喧嘩になってしまわないか、ハラハラした。でもそんなことはなかった。
そんな彼女たちが語るのは、「女であること」についてである。女子高生たちは、それぞれスタンスは違うものの、女であることにもがき苦しんでいる。そして、怒っている。あきらめそうになりながらも、必死に怒っている。その感覚を共有しているのだ。
それはもしかすると、理が勝った演劇調の議論だからこそ、表現できたのかもしれない。自然なやりとりだったら、そこまでバシバシやり合えないような気もする。だからあえて演劇調の息吹と枠組みを残したのかもしれない。
とにかく、彼女たちは、ハラハラするようなやり取りを経て、最後に「女であることにたじろがない」決意をする。男女の壁など超えていこうとする。それはあたかも、社会に対する静かな挑戦状のようだった。
発展途上の脚は戦闘宣言となった
彼女たちの生々しい二本の脚は、少女の脚でもなく、そして大人の脚でもない。とても不安定なものに見える。無垢でもなければ、諦念の境地にも達していない。
性的対象となってしまうことを、支配されるものになってしまうことを、ぎりぎりのところで拒否する脚である。男社会に飲み込まれてはいけないことを宣言する、生命の象徴として堂々と映し出される。もがきくるしむ発展途上の脚だ。
作り手の側に、どこまでそういう意図があったかはわからない。もしかすると、エロスの要素もあったのかもしれない。
また、女子高生の側にも、男社会の軍門に下るしかないというあきらめの意識があったのかもしれない。脚は、最初はそうした性のあり方の象徴だったのかもしれない。
しかし、最後には、彼女たちの脚は、戦闘宣言となる。迷いながらも、自立して大地に立つ、生命力の象徴として存在していたように感じた。
脚の話に終始してしまい、そんなことしか書けないのかという気もするが、せめて、この映画が語りかけることを自覚できる人間ではいようと思った。
山下監督作品は音楽が本当にかっこいいです。かっこいいだけでなく、登場人物の高揚感や心の揺れと共鳴するように感じます。
青春映画では特にそれがいかんなく発揮されるように思います。