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ため息俳句 失せもの探し

 

 陽水さんの『夢の中』へであるが、「何を探しているのですか」と、歌詞にある通り。いったい何を探しているのか、わからない。
 探すという行為は、まったくリアルな世界でのことで、夢の中で探すものというのはあるのだろうかと思うのだが、「夢で逢いましょう」なんてことも言うのだから、夢の中でも会いたい人を探すことがあるのかも知れない。
 
 『夢の中へ』の詞通り「カバンの中も机の中」も勿論探して、目の行くところ手の届くところのあれこれをどかしたりひっくり返したりしても、見つからないのだ。・・・探し物は、携帯電話である。
 
 携帯電話がないと気付いたのが午前10時ころ、それからずっと探しているが見つからない。
 人間関係の希薄な自分の場合、携帯電話はコミュニケーションのツールとしてはほとんど機能的価値はなく、もっと別な、いわば手のひらサイズのpcのような便利道具である。
 家の中にあることは、99パーセント確かである。狭い家だが、ガラクタに隠れてしまえば、容易には発見できない。

 こんな調子の、もの探しばかりである。ほぼ毎日、何かしらを探している。仮に自分はどうもなかったとしても、連れ合いがものを探している。老いた夫婦のどっちかが、日々家の中をうろうろと妙な目付きで歩き回っているわけだ。
 その都度、どちらかが「何の探し物?」と声をかけるのだが、妻の場合はそれに「使ったものを元の場所にもどすということが、どうしてできないのかしら」などどお叱りの尾ひれが付くのだ。毎度のことだから、こちらは馬耳東風ということだ。そんな小言にいちいち囚われていたら「幸せな余生」を送れやしないというものだ。
 
 やはり前の曲の歌詞にある通り「探し物をやめた時 見つかることもよくある話」でというのは、本当のことでそういうこともある。
 そればかりか、今日携帯電話を探索中に、このところ見かけなくなっていた老眼鏡を掘り出した。それがないのでちょっと困っていたのだ。そういうことも、往々にしてある。
 
 それに家じゅうを探しまくって、くたくたに疲れ果てて、へたりこんだ目と鼻先の仏壇の花瓶の脇に、目的の失せものがちょこんと置いてあったとか、そういうこともちょくちょくある。必ずや何度も視界に入っているはずの至近、目と鼻の先である。必ず見えているはずなのに見えていない。人は見たいものだけしか見ないのだというが、近くにあって常に視界の内にありながらも、見えていないことが随分ある。やれやれだ。

 むかし、若い衆が「自分探し」なんてことを言って、中にはでかいザックを背負って本当に旅に出た人も少なからずいた。この陽水さんの「夢の中へ」という曲は、そういう人たちへの軽い当てこすりの曲のように自分には聞こえる。いや当てこすりと感じるには、この爺ィのひねくれた根性ゆえであるのにちがいないのだ。ようは向きになって、思いつめるのは、かえってことをこじらせてしまうよということなのだろう。
 でも、そうも行かないのが、失せもの探しである。

 だが、「自分探し」というのは、人によっては生涯かけての大事業である場合がある。大体、本当?の自分なんて、失せものとは言えない。『われ思うゆえに我あり』というように、本当か偽ものかわからないが、我=自分は、存在してるのだから。
 そこへゆくと、我らの場合は例えば今日の携帯電話、財布、腕時計、老眼鏡、手袋、血圧計、パスワードのメモ、帽子、読みかけの文庫本、自動車のキー、裏口のキー、印鑑、どこそこの店のポイントカード、・・・そういった形ある「モノ」である。リアルにモノなのだ。
 
 言うまでもなく、物は自分から姿を隠すはずはなく、物がなくなるというのは、どこにものを置いたかという記憶がなくなることだ。物がなくなるのではなく、モノの置き所の記憶が消えてしまったというのが正しい。
 物忘れ、記憶力の衰退、老化のもっともわかりやすい現象である。まったくもって、悲しい。
 いづれは自分探しどころか、今ある自分自身を忘れてしまうのかもしれない。
 また今夜も取り留めのない駄文となった。

 寒波がやって来た。
 思いつきの句、忘れないうちに。


柿幾つ取残したるすべて取り  空茶


爺婆は我の張り合いも炬燵かな 


霜の夜やはて「民主主義」茶を啜る


大雪たいせつや久留米半纏天日干し


天中に細き冬月雨戸閉ず 


 追伸)
 今日、翌日曜の朝、もう一度自室の机の上を片付けなおしてみたところ、なんとまあ、携帯電話を発見。
 何をか言はんや、・・・・・、大トホホのお粗末である。
 探し物をするときは、まず落ち着いて身の回りから、肝に銘じよう。
 自室の作業台の上で見つけたと妻に言うと、にやりと笑われた。
 クソ!