見出し画像

ため息俳句 ふさぎの虫

 昨日来、憂鬱である。
 ふさぎの虫が取り憑いている。

  あのご存じ「ナンセンスの神様」と言われた長新太さんは、ふさぎの虫は「毛虫」ではないかとおっしゃっている。
 自分としては、ほぼ神的存在と言われた天才の直感を信じようとおもうのだ。

 ちょうど体操選手のような恰好で開けてあった窓から毛虫が無断で机の上に飛び込んできました。白い毛が茶色の体を包み、その動きの気味わるさといったらありゃあしないのです。〈虫の居所がわるい〉とか〈腹の虫がおさまらぬ〉とか〈虫が好かない〉のどという〈虫〉の正体は、おそらく目の前で体操をしているこの種の〈毛虫〉ではないのか?ーーそして、この毛虫が人間の体内に居住していて、人間の感覚をも操作しているのではなかろうか?ーーと、わたしは毛虫を眺めているうちに思い込んでしまうのでした。
 だいたい、こんな発想は、わたしのなかの〈ふさぎの虫〉が頭をもたげているからであって、これらも正確に言えば〈ふさぎの毛虫〉なのであって、それは滅多やたらに頭が重くなにやら毛虫の毛で刺されたようにチクチク痛むのでも立証できるのです。

 

長新太「長新太怪人通信」より

 これを読んで以来、時を選ばず唐突に気分が凹んで、憂鬱の沼にはまってずるずると溺れてゆくようなあの感覚は、実は〈ふさぎの毛虫〉によって操作されているのだと、信じることにしたのである。
 〈ふさぎの虫〉にとりつかれると、自分の場合はまず誰に対しても口を閉ざす。そうして、やるべきことは、てきぱきとやる。黙ってやる。行為はあるが、言葉はない。
 憂鬱だから何もかもいやになって、なすべきことからすべて退却して閉じこもって無気力に陥ると、そういうタイプの人がいるとしたら、自分は真逆である。
 日常の生活は変わらずにしつつ、内面世界においては外界を遮断する。この世界内にあって絶対孤独であろうと思うのである。それって、ちょっと元気な風に見える、そんな印象を持たれるとしたら、間違いである。その心底は、地を舐めながら匍匐前進をするごとき憂鬱さであるのだ。妙な言い方であるが、ご理解願いたい。

 そういう病態であるから周囲のものはとりつく島がない。だまって、こちらの〈ふさぎの虫〉が落ち着くのを待つだけだ。
 この鬱々とした気分は、自分にとっても愉快なものではない。ならば二人暮らしの片割れにとっては、まったくもって迷惑千万であろう。その証拠に、こちらの気分が回復したと観察するや、この間我慢してきたものを報復的にこちらに投げ返してくるのでもわかる。
 
 もし新太さんのいうようにそれが「毛虫」なら虫下しのようなものを飲んでさっぱりしてはどうかと言われるかもしれないが、それはそれでなんだか寂しなるような気がする。
 なぜなら、このふさぎの虫とのつきあいはまことに古いのである。たぶん切れ味のわるいバリカンでもって、お袋がごりごりと毛を刈ってくれた、あの洟垂れ小僧の頃から、一人で町外れをさまよう癖があった。あれもきっと〈毛虫〉のなせる技であったように思うのだ。
 つまり、このふさぎの虫は自分にとって、かけがえのない何者かであるのだろう。


ふさぎの虫我が身の内に越冬中  空茶


 ところで新太さん、「ちょうど体操選手のような恰好で開けてあった窓」って、どういう形なのでしょうか?