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ため息俳句 年が明けると、墓に行く

 昨日は、我らの子の命日、墓参。
 墓まりの前にお寺さんに新年の挨拶に行く、心ばかりのお布施を差し上げて、今年もよろしくと。
 日は差しているものの北風のために体感的には相当に寒い日であった。
 
 今日は、妻の母親、つまり義母の命日である。

 昨日の墓参りと云ってはいるが、墓石はない。墓石の建つところには、お地蔵さんのレリーフが墓石の代わりに設置してある。お地蔵さんは幼子を抱き抱えておられる。石屋さんが、がんばってそんな風に彫ってくれたのだ。
こちらからお願いしたわけではないが、子はあまりに幼く亡くなったので、そのようにしていただいた。

 墓地は工事的には全部整備しておいたので、あとは墓石を建てるのだけになっている。いつ頃にするかと、・・・それは自分か妻の最期が覚悟された時だと。
 云うまでもなくその覚悟の時はそう遠くない。この頃になって、彼岸や盆にお墓にゆくと、あちらこちらの他家のお墓を眺めて、あんなデザイン、こんな形は、などと夫婦で話すようになった。そういう年になったのである。
 ともあれいくら立派な墓を建てとしても、いづれは無縁仏となって、撤去される。そのことを頭に置いておかなければならない。そう思うと、なんだかどうでもよいという気になってくるのだが、・・・。
 
 花を供えて、ペットボトルに詰めて家から持って行った水と、線香をあげる。それに、本当はしてはいけないことになっているのだが、家の畑でとれた蜜柑を一つ置いてきた。
 命日に行くのは、いつも二人きりだ。

 彼岸と盆には、子ども達もくる時もある。幼い孫たちが墓にかわいらしい手を合わせてくれるとたまらなくなることがある。亡くなった子は、自分の中でいつまでも生後間もない小さな命の姿をしていているのだ。孫の姿に、亡き子の顔を重ねたくなる。
 自分の勝手な願いだと云われるかもしれないが、あまりに幼くして亡くなったとはいえ、その子の弟妹にあたる子や孫たちにも記憶していておいて欲しいと思うのだ。それは、ご先祖様を大切にということでない。そういうことでなくて、たとえ会ったことがなくても、この世に現れた一個の命のあったことを、誰かが忘れないでほしいと思っているのである。

 そんなことをいえば、やはりお墓はあった方が良いかもしれない。

寺はまだ松の内らし墓参り  空茶

雪浅間からからからと塔婆鳴る

線香を尖らすほむら空っ風

父母老いぬ地蔵に抱かれ幼子よ