ため息俳句 「空気」
この「KY」は今でも生きて使われている言葉であるのか知らないが、人の評価に関してネガティブな意味合いで使われているのは、爺だってわかっている。
40年余りサラリーマンをやってきたのだ、「空気」を敏感に読む習性は身についている。
今度のジャニーズ事務所の会見でも出ていて、得体のしれない「触れてはいけない空気」「口にしてはいけない空気」というのは、この国では歴史的にも日常的にも、ありとあらゆるところにある。
「空気」を読んでそれに馴致するというのは、大抵はその場の多数派に迎合する保身である。「空気」を作るというのは、その場を支配するための心理的な多数派工作である。「空気を読め」というのは、黙って長いものには巻かれろという意味の場合が少なくない。
でもいい「空気」というのは確かにあるではないかと云う人もいる。いい「空気」って、心の絆を強くするし、気持ちいいしとか。しかし、多数の人が感じるいい「空気」とにいうのが、どれほど当てになるのだろうか。
「空気」に頓珍漢な者も無関心な者も、多数派から見れば逸脱者である。まして、異を唱える者などは排除の対象になる。大なり小なりのリスクを負うことになる。勿論何かの事情で、英雄的なふるまいとしてもてはやされることがあるが、それは権力にとっても利用価値がある時だけである。
それに、「空気」はどんなに荒唐無稽でも陳腐でも、何かしらの価値とか思想とか慣習とかをまとってやってくる、やっかいなことにこれがとても耳ざわりがよろしいのだ。
だから、「空気」が読めないというのは、戦うにしても不利なのだ。空気を感情的にのみで受け止めてはいけない、それだけだと恐怖しか感じられない。「空気」を読むということは、「敵」の本性を見極めるということだからね。得体のしれないということは、多分ない。それでもやっぱり「空気」と云うのは波風は御免だ側からの同調圧力だから恐怖なんだが。とにかく、落ち着いて、距離をとって、しばらくは鈍感なふりをして、軽んじられても、ゆっくりゆっくり、粘り強くね。日和見だって時と場合によっては最善である場合もある、そういう時は居眠りを決め込もう。特に家庭内に於いては、その傾向が著しいというのは、皆さんお見通しであろう。
「酒は飲んでも、飲まれぬな」と云うが、「空気は読んでも、飲まれぬな」とかいうと、笑われるか。
会議に倦みてちびりちびりと冷えた茶を
物言いてクールダウンの「個室」かな
それに、場の空気を感知するのがもともと難しい人達が存在する。例えば最近はよく話題になる一部の発達障害の方々などへの理解を。