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#32 子はこたつ親父はころぶ所まで 柳多留拾遺
子はこたつ親父はころぶ所まで 柳多留拾遺
『風流人の父親は、「いざさらば雪見のころぶ所まで 芭蕉」と出かけるが、現実派の息子は雪見なんて馬鹿馬鹿しいと炬燵にかじりつく。』(『探訪 江戸川柳』興津要)
芭蕉の句は、「折しもの雪。さあ、それでは皆さん、雪見に出るとしよう。道ですべって転んだらそれもよし。さあ転ぶ所まで出かけよう。」とか。
花見、月見ここは雪見の遊山である。句の前書きに「書林風月と聞きしその名もやさしく覚えて、しばし立ち寄りて休らふほどに、雪の降り出でければ」とあるから、折しもの雪に心が躍ってということだが、雪見の宴の席での句であった。
先週来、東北地方の大雪の様子が連日報道された、そうした地方でご苦労をされている人の眼からこういう雪見の宴なんてことは、どう見えるのであろう。
自分と云えば、炬燵にかじりつくどら息子に近いかも知れない。年端の行かない頃ならば、雪が降れば嬉しくてはしゃぎ回ったものだが、生意気盛りの小僧以降は、そういう気持ちは薄れてきたように思う。炬燵で蜜柑のほうが自分らしい。
こういうことを云うと、風雅の人々から無知蒙昧の輩と軽蔑されるされることはよく知っている。しかし、文芸というものは、ある前提の上で成立しているのだ。それを特権的なものだと勘違いしてはならないと、自分は思う。
芭蕉という人は、自分の目から見るとどうも過剰な所がある。
名月や池をめぐりて夜もすがら 芭蕉
誰でも知っていそうなこの句でも、そりゃあ、ないだろうとというのが、自分の率直な感想である。「夜もすがら」とは、夜通しということだ。夜明けまでと云うのだ。こういう表現というのはどうなのだろうと、思うのだ。
滑稽、風狂そういう感じで読むなら、まあよいとしてであるが。
この芭蕉の句のパロディは、たいして面白くもないのであるが、でも俳聖芭蕉をからかわんとする気分は、よく分かる気がするのだ。
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