【檀一雄全集を読む】第一巻「花筐」
一応榊山が主人公ということになるんだろうか。個性的な男二人の間で純粋な男が振り回されながら成長していく話として、なんとなく太宰治「ダス・ゲマイネ」を連想する。「ダス・ゲマイネ」は昭和十年に発表され、「花筐」は昭和十一年に発表されている。
これだけ見ると「花筐」は「ダス・ゲマイネ」の影響を強く受けているように思えるが、「花筐序」は「ダス・ゲマイネ」より二ヶ月早く発表されていることを考えると、長篇としての「花筐」はまた違う形だったんだろうとも思う。
長篇「花筐」の構想では第四の男、運河登四郎という男が登場するはずだった。いや、実際は登四郎というのはあきねが実在の人物から空想して語ったものがやがて少年たちの中に定着したものなのだが、不良達のボスのような存在として語られていた人物ということになっている。この設定は短篇「花筐」では消し去られた。そのために「ダス・ゲマイネ」に似たのか短篇にするにあたって「ダス・ゲマイネ」を参考にしたのか、いずれにせよこの時期の檀一雄と太宰治の共鳴ぶりというのは凄いと改めて思う。
この短篇「花筐」はアムステルダムからの帰国子女である榊山が海辺の町の大学予備校で出会った二人の個性的な男、精悍な体力そのもののような鵜飼と、観念の幽霊のような吉良との交友を描いている。不良少年らしいのは鵜飼の方で、彼に導かれて榊山は学校をサボって煙草を吸ったり酒を飲んで電車が交錯する線路を渡ったり、男女入り乱れて酒と音楽と踊りに興じたりする。
榊山は十七歳で鵜飼は十八歳だから今読めばそこまで不良という感じはしないが、昭和十一年当時はこのような学生は不良と言われたんだろう。不良かどうかよりも、榊山が新しい友人に導かれながら自分の意思と足で領域を広げていく新鮮な喜び、つまり青春を描きたかったんだろうと思う。
それにしても死の匂いが強過ぎる。エピソードや登場人物の去就はすでに考えられていたんだろうが、それをじっくり描くことができず短篇にするために人がどんどん死んでいくような印象を受けてしまう。その性急さも青春ということなんだろうか。
個人的に好きな場面は鵜飼に紹介されて千歳、あきねと榊山が初めて会った公園で鵜飼が葡萄酒を回し飲みしようとしたら千歳に断られ、じゃあどうしようとなったら榊山がクラスメイトの阿蘇に貰ったゆで卵の殻を器にして飲もうと言い出すところ。ちょっと真似してみたい感じがある。
ちなみに、鵜飼がストーブの上で温められたお湯の中に金貨を入れて阿蘇に「取れたらやるぞ」と言い、取れなかった阿蘇の代わりに「僕でもいいのかい?」と吉良が腕を突っ込んで金貨を取る場面があるが、これは檀の体験を元に書かれているらしく、檀の死後に発刊された『ポリタイア 檀一雄追悼特集号』に古谷綱武が寄稿した「二十二歳の檀一雄」の中に檀一雄から聞いた話としてこのエピソードが出てくる。