檀一雄「小説 太宰治」に登場する音楽まとめ
はじめに
檀一雄「小説 太宰治」には檀一雄との交友の中での太宰治のエピソードが数多く書かれていますが、中でも飲食のシーンと音楽が登場するシーンは、その時確かに生きて生活していた太宰治というひとりの人間を感じることができて非常に印象深いシーンとなっています。
ここでは音楽が登場したシーンについての紹介と、現在Youtubeで聴くことができるものについては一緒に紹介していきたいと思います。
トロイカ ロシア民謡 (21p.)
1993年~95年頃、太宰治と檀一雄が玉の井(現在の東京都墨田区東向島五丁目、東向島六丁目、墨田三丁目辺りに存在した私娼街)通いをしていた日々の回想シーンの中に出てくる曲です。
例えば玉の井の入り口にある、日雇い労働者などが集うコップ酒屋で黙々と酒を飲み、意気上がると珍々亭というカフェでお互いを「礫(つぶて)の弥田」「隼(はやぶさ)の銀次」と呼び合い、女給に際限無くレコードをかけさせながら大いに歌ったといいます。そんな時酔っ払って音階の狂ってしまった太宰治の顔をよく覚えていると檀一雄は書いています。
ただ、小説の中でははっきりとこの曲が「トロイカ」だと書かれているわけではなく、
という歌詞のみが書かれています。しかし、ロシア民謡「トロイカ」の一般に知られている訳詞(楽団カチューシャが訳したもの)では、
となっています。これは当時別の訳詞が存在していたのか、もしくは歌詞は似ていても全く別の曲なのかもしれません。しかしトロイカを大声で音階怪しく歌う太宰治というのはいい光景ですね。
青い背広で 藤山一郎 (37p.)
1935年3月前後のことですが、東大仏文科に入ったものの全く授業に出席せず檀一雄や山岸外史とつるんで居酒屋やカフェ、私娼街などに通い詰めながら小説を書いていた太宰治はとうとう東大を除籍になります。もちろん故郷の肉親には本当のことなど話しているはずもなく、東大を除籍になったことがそのまま知られたら仕送りを止められてしまうかもしれません。そこで、同じ井伏鱒二門下の中村地平が学芸部に在籍している都新聞社に入社し、大学は除籍になったが働き口は確保したということでいわば体裁を整えようと考えます。
中村地平と面接の打ち合わせなどをして、檀一雄が故郷からの送金で誂えた青い背広(選んだのは太宰治だったようです)を着て、将来への希望からでしょうか、それともそれ以外に手の無い状況の中での空元気や強がり、太宰治の好んだ表現で言えば「曳かれ者の小唄」といった心境ででもあったのかもしれませんが、ともかく大はしゃぎで、当時の流行歌だったこの「青い背広で」を口ずさみながら檀一雄の家から口頭試問に向かいます。
結果は残念ながら不合格でした。いよいよ打つ手無し、となった太宰治は鎌倉に向かい縊死を図りますが、失敗して帰ってきます。この様子を太宰治は「狂言の神」という小説にしています。
グラナダ コンチータ・スペルビア (128p.)
「小説 檀一雄」のハイライトの一つといってもいいエピソードに「熱海事件」があります。これは「二十世紀旗手」が雑誌「改造」に発表された時期ですから1937年1月頃(小説中では1936年12月と書かれているので「頃」とします)のことです。
太宰治の奥さん初代さんに「太宰は今熱海で仕事をしているのですが、お金を届けに行ってくれませんか?」と言われた檀一雄はお金を預かって熱海に向かうのですが、熱海で太宰治に導かれるまま酒を飲み、芸者を買い、また酒を飲み、芸者を買い……と当初の目的を忘れて遊び呆けてしまいます。
そしていよいよこのままではどうすることもできない、ということで太宰治は檀一雄を旅館に預けて金の無心をしに東京へ向かいます。しかしいつまで経っても戻ってこないので、旅館の主人に促された檀一雄は太宰治を探しに東京へ向かいます。
檀一雄のもくろみ通り井伏鱒二の家にいた太宰治は、金策に走るどころか悠長に井伏鱒二と将棋を指していました。そこで激怒した檀一雄は太宰治を怒鳴りつけるのですが、太宰治は井伏鱒二が席を外した時にふと反論のように呟きます。
これはいかにも太宰治という台詞です。あくまで自分の主観に引き寄せて物事の悲哀を語ろうとするこの思考から、数々の優れた小説が生まれたことは間違いありません。しかし自分の身近にこういう人がいたらと思うと……それでもどこか憎めない愛敬もあったようなのですが、やっぱり大変面倒臭い人だったんだろうなと思ってしまいます。しかし檀一雄はこの一件が太宰治の「走れメロス」に影響を与えているのではないか、文学に携わる者の幸福を思うと書いています。この度外れた人の良い友人が太宰治にいたこともまた幸福だったと言えるでしょう。
さて前置きが長くなってしまいましたが、その「熱海事件」で金策のため東京に向かった太宰治を待つ檀一雄の元には、毎晩芸者が通ってきました。太宰治が留守中の檀一雄のために頼んだものだったらしく、毎晩その芸者を布団の中に抱いて寝たわけですが、騒動も片付いた檀一雄は自分の身に起きている異変に気づきます。淋病です。芸者宿では避妊具が使えたものの、泊まっている旅館にはその用意が無かったのです。
その淋病の疼きだか痛みだか、檀一雄は「不快な悪寒」「軍勢が攻めのぼってくる感じ」と表現していますが、その苦痛に耐えながら、行きつけの喫茶店「紫苑」でビールを呷り、この「グラナダ」のレコードを手回しの蓄音機で繰り返しかけさせては酔っていたそうです。
ブランデンブルグ・コンツェルト バッハ (157p.)
淋病に罹ったものの入院するほどのお金を持っていない檀一雄は、太宰治の郷里の先輩であり榎本健一の座付き作家だった菊谷栄に買ってもらった消炎剤を飲んだり、しかし相変わらず酒も飲んだりしながら自然治癒を待ちます。ところが症状は悪化する一方で、決心した檀一雄は山岸外史に借金をして入院します。
その病室の中に借りてきた蓄音機を置いて、繰り返しかけていたのがこのブランデンブルグ・コンツェルトだったそうです。これは第1番から第6番まである曲ですが、5~6枚のレコードだと書かれているので、1曲ごとにレコードになったものをかけていたようですね。
この入院生活の中で檀一雄が太宰治に書き送った短歌がとても良いのでついでに紹介します。
これには後日、太宰治も「あの歌はいいもんだった」と檀一雄に伝えています。すがすがしいような自嘲ですね。
雨に咲く花 関種子 (168p.)
1937年、檀一雄の初めての作品集「花筐」出版の頃、また太宰治の単行本「虚構の彷徨」出版の頃に連日のように飲みに行ったスタンドバー「シャンタン」で、太宰治がこの歌を大声で歌っていたそうです。
最後のシャンタンは本来の歌詞に無いのですが、歌の前後に店名のシャンタンを付けながら太宰治は歌ったそうで、これがいかにも酔っ払いがやりそうなことでいいですね。この店の壁の装飾は向井潤吉によるもので、単行本「虚構の彷徨」の装丁もそうなんだと太宰治は壁を指さして見せたそうです。
暗い日曜日 榎本健一 (185p.)
1937年の夏、日中戦争の勃発により檀一雄は召集を受け久留米独立山砲兵第3連隊に入隊します。平日の真夏の演練に耐えながら、週末は外泊を嘆願して酒を飲みに行く日々。新聞紙上では同じように出征していった友人知人の戦死が伝えられます。檀一雄が淋病に罹った時に消炎剤を買ってくれアドバイスをくれた菊谷栄も亡くなりました。
この曲は歌詞から曲名を特定することができませんでしたが、こういう檀一雄いわく「市井の唄」を歌いながら酒に酔いしれていたそうです。
そんなある日、おでん屋で酒を飲んでいると、エノケン(榎本健一)の歌う「暗い日曜日」のレコードが流れ出しました。
どうにもやりきれぬほど悲しい歌だ、とレコードを借りジャケットを見ると作詞は菊谷栄です。レコードを持つ手が震えます。菊谷栄を忍びながら、檀一雄は酒を呷ります。
しかしこの替え歌の作詞はとてもいいですね。冒頭の語りも含めて、檀一雄にとっては太宰治との交遊を象徴するような内容になっていると思います。「小説 太宰治」にエンディングテーマをつけるとしたらこの曲が最適でしょう。
以上7曲を紹介しましたが、こうしてYoutubeで当時の音源を聴くことができるというのは本当にありがたいことですね。同じ音楽を聴いて酒を飲みながら読んでいると、まるで自分もその場面に遭遇しているかのように身近に感じることができます。太宰治についてなんとなく暗いイメージしか持っていない人にも、みんなと同じようにいろんな顔を持ち、生活していたんだという実感を少しでも持ってもらえたら嬉しいなと思います。