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【檀一雄全集を読む】第一巻「母の手」
檀一雄は母親のことを度々書いている。檀は六歳の時に父の転勤のために両親から離れて母方の祖父母が住む野中、現在の福岡県久留米市に預けられた。翌年にはまた父の転勤のために栃木県足利市で両親と暮らすようになるのだが、さらに翌年には母の実父が亡くなり、実家の整理のために今度は母が野中に滞在するようになる。そのまた翌年、檀が九歳の時に母は弟の看病の際に知り合った医大生と出奔する。そのまま檀は二十一歳になるまで(作中では二十三年と書いているが実際は二十一年)再び母と会うことが無かった。
こういった体験によって作られていった檀の母親の印象というのは神格化されているようでもあり、奔放な性の象徴のようでもあり、ためらわずに迷惑をかけることができる完璧な庇護者のようでもある。また安定した保護者を持たなかったこと、その中で自然を相手に自分を試しながら育んでいったことが檀の快活で孤独な放浪者としての性格を作っていったと思われる。
この小説で書かれている野中での生活は「此家の性格」や特に「美しき魂の告白」の中に見ることができる。そうした意味でこの小説は特に初期の檀一雄の小説がどのように成立していったかを理解するのに役立つだろう。
また、両親と共に東京の谷中(日暮里)で暮らしていた頃のエピソードは、この小説が発表された三十年後の昭和四十七年発行の文藝総合誌『浪曼 十一月号(創刊号)』の「随想 わが心の来歴」の中にも書かれている。
素晴らしい秋の夕暮れ。母の手につかまえられながら、谷中の家の二階から、「雄飛号」の飛翔の姿を眺めやった。 夕陽差しのまばゆさと、アカネ雲の見事さから、つい最近まで、「雄飛号」を「夕日号」と思い違っていたことを知った。
もう一つ。これははっきり母の思い出だと限定するわけにはゆかないが、日暮里の借家の二階の窓から「雄飛号」の飛翔の姿を眺めていた。帝都の赤く染った入陽雲の間に、夕陽を浴びてこの軟式飛行船が、ゆっくりと飛んでいた姿は、今思いおこしても飛抜けるばかりに美しい。
一方では「雄飛号」を「夕日号」だと思っていたと書き、一方では母との思い出だったと限定できないと書く。つい最近まで「夕日号」だと思っていたと書いた三十年も前にはっきり「雄飛号」と書いているし、母の思い出だと限定できないと書いた三十年後にははっきり母に手をつかまえられながらと書いている。
ここが小説家の書く文章のおもしろさで、随筆だったり自らを題材にした私小説だったとしても、必ずしも事実そのままを書いているとは限らない。もちろんすべてのエピソードを完全に記憶しているわけではないので、書くたびに本当にそのように思い出したのかもしれないし、主観も入る。それが太宰治との交友を書いた一篇の題名に小説を付け「小説 太宰治」とした理由でもある。
ただ後世の読者とすれば、その事実と脚色の間を読み比べ、推測し、語る楽しさがあるわけで、これは邪道な読み方だとは重々思いながらもやめられない楽しみでもある。