【読書】山岸外史『芥川龍之介』を読んだ
この『芥川龍之介』は山岸外史の二冊目の長編評論で、昭和十五年(1940年)三月二十日にぐろりあ・そさえて社の新ぐろりあ叢書の一冊として刊行された。棟方志功が装丁をしている。
以前に読んだ池内規之『評伝・山岸外史』によると、当時まだ芥川龍之介の人と文学を単行本としてまとめて論じたものはほとんど初めてといっていいほどであり、視点も新しかったため好評で瞬く間に版を重ね、十三版にもなったという。また戦後改めて再刊、文庫本での再刊、またその文庫本の再刊がなされている。現在廃刊になっているのが不思議なくらいだ。
私がこれまでに読んだことがある山岸の作品は『人間キリスト記』『人間 太宰治』で、『人間キリスト記』は聖書に書かれたキリストの歩みを想像力を持って人間として肉付けし解釈しようとしたものだし、『人間 太宰治』は芸術上のライバルでもあり親友でもあった太宰治との交友を主に書いたものだった。評論らしい評論はこの『芥川龍之介』が初めてだったのだが、まあなんと特異な評論だろうかと思った。いや、前作『人間キリスト記』の方法で作品の行間から芥川の思考と生活とを想像し、自らも詩人である山岸が感じる詩精神の可否を論じているという点では確かにこれが山岸の「人を語る」手法なんだろうと思う。
ちなみに、本著の中で山岸が考える批評とは何かということはこのように書かれている。
この「自己を語る」ことの割合がかなり多いのがこの本の特色だと思う。毎日毎日原稿用紙の前に座り、傍の芥川龍之介全集をパラパラとめくり、または腕を組んで中空に目をやりながら、少しずつ書き進めているその内心の葛藤や疲労、後悔までをも書きつけていったような文体だ。太宰治が昭和十年に文芸同人誌『日本浪曼派』に発表した「道化の華」で、物語る作者の言い訳や自虐が随所に挟まれていたあの文体を彷彿とさせる。どころか山岸は芥川に手向ける詩篇を二章も費やして挟み込んだりしている。評論や批評という前提で読むと私でなくてもかなり面食らうだろうと思われる。でもそこが面白くもある。まるで当時山岸の書斎であった千駄木町のアパートの一室で夜な夜な膝を突き合わせて芥川論を聞かされているかのような心安さがある。こうしたところも当時斬新だと受け止められたのかもわからない。
芥川論の内容としては、まず前提として、これまでの芥川評は「生活上意気地のなかった作家だった」「神経衰弱で自殺したのにすぎない」と不当に軽視されているとし、「客観的観察にしたがえば、『人間的内面苦悩』などというものは、どんなに苦しい場合でも、絶対に、問題にされないのが、世の中の常識と習慣になっている」という。つまり、芥川を語る多くの論者はただ常識の上から芥川を非難しているに過ぎず、「人間主観」の上から人間や文学を考えなければ絶対に理解できないと山岸はいう。ただ、芥川は内面を語ることができなかった作家でもある。最晩年の作品でようやく写実的に自分の苦しさを書き始めたところで力尽きてしまった。この「自己を語ることができなかった」というのが芥川の最大の問題だったと山岸は考えるのである。
これを前提として、前半は芥川の晩年の作品「歯車」「或る阿呆の一生」「闇中問答」「西方の人」などを読み解きながら(そこに芥川の心境や文学的狙いなどを肉付けしながら)、なぜ芥川が死に向かうことになってしまったかを論じている。この中で特に印象に残ったのは、「歯車」を論じる章で、芥川は徹頭徹尾文学青年的で、多くの海外文学を読んだだろうが、晩年に至るまで、外国人の名前を出しては、彼はこう考えた、彼はこう言ったと書いていた。それはつまり「自分としての答えがない」「芥川龍之介としての答えがない」ということだと。
致命傷であったが、最後の最後でかろうじて「歯車」を書いた。この苦悩が表現まで高められていたら、ドストエフスキーと肩を並べることができたかもしれないが、芥川はかろうじて「告白」するのにとどまっていると。事実を並べたに過ぎないと山岸はいう。ただ、その悲劇と告白に興奮を感じるのだと。陰惨な作品だけど「歯車」をまた読んでみたくなった。
また、芥川と耶蘇についてを論じる章では、芥川が神を信じることができないことを訝ることについて次のように書いている。
これは正に、山岸の盟友であった太宰治が「人間失格」で語る「神の愛は信じられず、神の罰だけを信じているのでした」というキリスト観への批判にもそのまま繋がるではないか。国土に根付いた風俗としての信仰ではなく、奇跡を体験することもなく、単に箴言集や哲学書のように、あるいはイエス・キリストへの親近感によって聖書を読んでいる。それでは満足な信仰になり得ないのも無理なことでは無いだろうと。太宰もこの芥川論を読んでいるとは思うが、晩年にこの指摘を思い出すことはなかったのだろうか。
本著は中間に山岸の詩を二篇(二章)挟み、後半は芥川龍之介の前期の作品について論じている。この期の龍之介は文才もあり、麗筆でもあり、美文家ではあったが、ほとんど文学を理解していない。これを芥川龍之介風な諷刺をもって答えるなら「彼の全集の中、三巻までは、全くの白紙である」とさえ言えると山岸はいう。
かなり辛辣な言葉だが、確かに初期の芥川の短篇はそれが王朝ものであれ説話風のものであれ、私小説らしいものでさえ、何か気の利いた皮肉を書いてやろう、それが人間の本質だろうという安易さを感じることが多い。個人的にはその意地の悪さを好んで読んでもいたが、文学かどうかと言われれば、現代ではその文体やテーマ、歴史的に与えられている名声から文学だと思って読んでいるだけで、娯楽小説と言ってしまってもいいのかもしれない。そして、そうした文学生活に芥川の良心が気付き、それを許せなかった苦悩、さらにそれを新しい自分の文学として表現しようと戦うことができなかったところに芥川の敗北があったということなのだろう。
先に紹介したようにこれはあくまで山岸の批評であり山岸の持つ文学観による批評で、山岸が彼の詩精神によって読み解いた芥川龍之介の作品を論じているのだから、断定的に思われるところも無いではないけれども、それでも読んでいて楽しい評論だった。改めて芥川の晩年の作品を読んでみたいと思う。