上下水道の歴史① ~江戸の”和製水インフラ”は世界最先端だった~
日本における上下水道の発展について、全3回に分けて紹介します。
第1回は、『和製水インフラ』が整備された江戸時代に注目します。
江戸は、都市化による人口の急増に伴い、清潔な水の確保、衛生環境の整備が喫緊の課題となったことで、水インフラが発展しました。
江戸の水道 ~ハイブリットな水利用~
江戸時代の都市部では、各家庭や商家は浅井戸を掘って水を確保していましたが、飲用には適しませんでした。
埋め立て地や湿地帯であった江戸の井戸水には、塩分などが混じり、水質が悪かったのです。
そこで、江戸幕府は飲み水を確保するために大規模な水路を整備しました。まず、井の頭池から、総延長63キロにもなる長大な神田上水を引きました。続いて多摩川から水を取り込む玉川上水を開削し、市中のメイン通りや商業地区に水を供給しました。
玉川用水は、記録によると僅か8か月程度で完工しており、江戸の土木技術水準の高さがうかがえます。
水路が整備されると、町中には多くの公共の水場が設けられました。これにより、庶民も比較的容易に清潔な水を得ることができるようになり、生活の質が向上しました。公共の水場は、日常生活の中での交流の場としても機能しました。井戸端会議の誕生です。
また、土地の形状の都合で、上水の供給が困難な地域に飲用水を届ける水屋・水売りという稼業が生まれました。
江戸全体に、水供給ネットワークが整備されることで、都市の発展を支えました。
江戸の下水道 ~下水網×し尿循環~
江戸の町は、下水網の整備とし尿の農地利用によって、非常に清潔に保たれていました。
江戸時代の初期には、都市部の生活用水や雨水を、堀や川へ排水し、海へ流す下水網が整備されていました。
また、当時の農家にとって、し尿は重要な肥料であり、し尿の農地循環システムが機能していました。そのため、長屋や公共の場にはトイレがあり、し尿の汲み取りが行われたため、下水にはし尿を流しませんでした。
江戸では、『用はトイレで行い、下水には流さない』ことが当たり前であったことが、都市の公衆衛生において大きな役割を果たしました。
同時代のヨーロッパ諸国では、し尿は下水や側溝に流すか、路上に垂れ流していました。それが原因となり、コレラやぺストが大流行していました。
幕末に日本を訪れたイギリス人外交官・オールコックは、アジア各地やヨーロッパに比べ、江戸の町が非常に清潔で驚いたことを著書に残しています。
江戸の水インフラ管理
江戸の水道・下水道はハード面だけでなく、管理体制も優れていました。
上水を管轄する町奉行は、上水のムダ遣いを規制し、低質の浅井戸水と上水を用途別に使い分けるハイブリッド給水方式を主導しました。また、上水路の主要部には、水量・水質を監視する役人を配置し、安定した水供給を管理しました。下水においても、汚れが溜まりやすい下水升の定期清掃や、下水の上にトイレを作らないといった規則を設けることで、衛生的な環境を保っていました。
江戸の『和製水インフラ』は、当時、世界トップレベルでした。
まとめ
江戸時代の水道・下水道は、日本独自の形で都市の発展を支えました。
重力のみで水を引く主要水路×井戸×水屋による水供給ネットワーク、し尿循環システムが整備された江戸の水インフラは、現代が目指す『カーボンニュートラル』の参考になりそうです。
江戸の先人たちが築いた水インフラの詳細は、また別の機会に深堀したいと思います。
次回は、上下水道の歴史②として、明治維新を起点に水インフラの変遷をたどります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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