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シューマッハ・カレッジで体験した奇跡の物語(後編)

前編の記事では、わたしがシューマッハ・カレッジに出逢うまでの軌跡を綴った。


後編では、授業の中で特に印象に残ったワンシーンや、わたしが1週間で体験したシューマッハ・カレッジの奇跡について言葉にしてみようと思う。

シューマッハ・カレッジとは、をヒトコトで語るにはむずかしい。
それだけ、多様な価値があり、色んな視点から語ることのできる味わい深い場所だ。

だけど、シューマッハ・カレッジ留学から1年後のいま、いまだからこそ、wekpediaやwebsiteの説明ではない、わたしにとってのシューマッハ・カレッジが浮き彫りとなった。


わたしのとってのシューマッハ・カレッジとは、

源から創造し行動する力を人に目覚めさせる学校

すべての生きとし生けるものとのつながりを感じさせてくれる場所

だった。

どうしてもひとつに絞れなかったのには理由があるんだ。

石造りが素敵なダーティントン・ホール

すべての生きとし生けるものとのつながりを感じさせてくれる場所

あえて固い言葉で表現するならば、シューマッハ・カレッジは『ホリスティック・サイエンス』を専門的に学ぶ大学院である。
ホリスティックとは和訳すると『全体性』。
(いや・・・日本語でもようわからん)

全体性を簡単に説明すると、すべてを含んで全体を捉えること。
ここは良い、悪い、とジャッジせずにひとつのまとまりであると認識する。

全体性と親和性が高いのがシステム思考だ。

システム思考は、要素要素に分けて捉える見方ではなく、要素同士の関係性や全体に意識を向ける思考法である。

例えて言うと、体調不良になったときに内科や脳神経外科、皮膚科など専門的なクリニックで診察するだけではなく、総合医療施設でそれぞれの器官や臓器がどのように作用しあっているかを捉えなければ、本質的な課題は見えてこない、という考え方。

それと同じように、わたしたちの社会や存在もまた

すべてがほんとうはつながっている。

分けるという行為は、あくまで分かるためにするものだ。

世界は地続きで、同じ地球に住んでいて、
ほんとうには分かれていないけれど、人間同士が

「ここからここまではドイツという国にしよう」
「じゃあここからここまではイタリアにするわ」

という境界線を勝手にひいた産物が国である。

境界線なんて人間が理解するためにつくりだした幻で、
富士山だって高尾山だって同じ山だし、
山はわたしたちが歩いている大地である。

と考えれば、すべては大地でつながっている、というのはとても理にかなっている。

ホリスティック、という言葉は西洋的だけれど、身近な言葉でいう仏教の「縁起」という概念と同じことだと思う。

つまり、全部がつながっていて境界線が幻だという視点に立てば、

自分=すべて

になる。この辺りの概念は感覚的にわかりにくいのでぜひこちらの書籍を。
(めちゃくちゃ平易に書いてくれているのでお勧め)

わたしは、「すべてがつながっている」という概念を「そういう考えもあるんだなあ」と、あたまではぼんやりと理解はしていたものの体感的には全くわかっていなかった。

そんなわたしが、

「ほんとうに世界はつながっているんだ・・・!!!」

と号泣しながら実感する体験をプログラムの中盤ですることになる。

食事の前には手をつないで「いただきます」に想いを込める

Onenessを実感したサティシュの瞑想

プログラムの中に、早朝7時から創立者サティシュ・クマールによる誘導瞑想の時間があった。

瞑想か・・・日本でもやってるしな・・・。起きれるかな・・・。

と思いながらも、旅の中ではすこし緊張感があるためか、セットしたiPhoneのアラーム音で容易に目が覚める。

カーテンをあけてみるが窓の外は薄暗く、寒いんだか暑いんだか部屋からは読みにくい。

歯磨きだけ済ませ、すっぴんでコンタクトも付けずに、起きたてのぼーっとした身体に薄手のカーディガンを羽織り、瞑想ルームへ向かった。

足音をなるべく立てずに瞑想ルームに入ると、すでにサティシュがそこにいた。

インドの正装だろうか。深い緑色の衣に身を纏い、部屋の前方の椅子に腰かけ、目を瞑りながら佇んでいる。言葉を発さなくても、彼がいるだけでどっしりとした器が場にできあがる、オーラのある存在だ。

瞑想に参加する人は自分で棚から座布団を取り、好きな位置に敷いてゆく。

みんなが毎日使っているであろう座布団は、埃っぽい独特の匂いがする。部屋は20人が入れば満室であろうちいさなスペースで、正面に暖炉があり、大きな蠟燭の写真が壁に飾られていた。

シューマッハ・カレッジの瞑想ルーム

わたしはサティシュの右隣に座布団を敷き、背筋を意識しながら、両手を頭上で組んで伸びをした。

起きたてはいちばん身体が硬くなっていて、少し伸びをするとポキポキ、と骨の音が聞こえる。
鼻から息を吸って、深呼吸をし、自分を整えた。

7:00を迎え、サティシュが静かに発した。

Welcome to half of an hour, a guide meditaion.
The right hand represent the world , the left hand represent the self.
By bringing two hands together, we unite the world and the self.

(30分の誘導瞑想へようこそ。
右手は世界を表します。この左手は自分自身を表します。
ふたつの手のひらを合わせることで、世界と自分がひとつになります。)

ゆっくりと、落ち着いたトーンのやさしい英語だった。
瞑想は、「両極があってひとつなんだ」というサティシュのガイドからはじまってゆく。

呼吸に気づき、心に浮かぶことに気づいて。
期待や不安や、エゴを手放して。
そして、すべてがひとつであることを思い出す。

わたしたちは、呼吸を通じてすべてがつながっている。
わたしたちは、大地を通じてすべてが関係している。

光も闇も、男と女も、右も左も、上も下も。
すべての極がほんとうは対立していない。
すべては、ひとつなんだ。


30分間、このような「すべてがひとつである」というガイドとともに、
自分の呼吸の感覚と、つながりの感覚に触れ続けた。

すると、わたしの内側で言葉で形容しがたい不思議なことが起きた。

過去・現在・未来の境界線が溶けてなくなり、過去から現在に至るまでの記憶が走馬灯のように流れてきた。

5歳くらいの幼いわたしが、学校の先生になりたい!と言っていたこと。

10歳の頃パニック障害になり、いじめに遭い、不登校になり大好きだった学校に行けなくなったこと。

中学生のときに、母と父が離婚したこと。

高校の合唱祭、We are the worldで優勝し一体感と感動の涙を流したこと。

大学では国際協力を専攻して、本気で世界平和に寄与したいとNPOに全身全霊を注いでいたこと。

途上国を渡り歩き、孤児院やスラム街で周縁化された子どもたちと出逢ったこと。

人材会社へ就職して、情熱はあるけれど日本の就活制度についていけない留学生たちの就職支援をやっていくんだと意気揚々と内定者インターンしたものの、学歴があり困っていない人材から優先的に荷電をする利益重視のシステムに絶望したこと。

人事や組織開発の経験を積むも、人をハイパフォーマー/ローパフォーマーとデータ化、分析し、ハイパフォーマー人材のみが重要視されること。

個の可能性を大切にして引き出すコーチングに出逢い、これだ!と思ったこと。

これまで生きてきた人生の物語のシーンが帯のように連なってひとつにつながった感覚があり、気が付いたら涙がとめどなく溢れていた。

幼少期のつらい体験も、
社会への怒りも、公正への情熱も、
ぜんぶが必要で、大切で、あっていいんだ。

そしてその体験があってこそ、わたしなんだ。

すべてが金色の光につつまれ、次第にわたしという境界線も溶けてゆく。存在しているのは、ただの光の粒で、そのどれもがつながっていて、無限に溢れる大きな光に包まれ輝いている世界だった。

…すべてがひとつなんだ。We are the worldだ。
わたしはこのすべてがひとつの世界を実現したくて生まれたんだけれど、幾度とない絶望を体験して実現することは不可能だってあきらめていたんだ…。


サティシュの瞑想の時間で、いつの間にかあきらめていた、だけど心から願ってやまない世界が実現している感覚を体感した。

そうか。実現できるんだ。

瞑想中に体験した世界は、わたしにとって希望の光であり、願いであり、祈りであり、生きる意味だった。

つながっているという感覚が、源から行動する力を目覚めさせた

瞑想中に体験したこの"つながりの感覚"こそが、シューマッハ・カレッジの掲げる全体性、ホリスティックな感覚のことだったんだと腑に落ちた。

この抽象的な感覚は、瞑想だけでなくすべての授業で先生たちが口々に伝えてくれた。
授業は、再生経済学、コミュニケーション、環境科学、システム思考、料理、アートなど多岐に及んだが、どの授業でも「すべてはつながりの中で存在している」というホリスティックな思想があった。

私たちがすること、私たちがすることの累積的な影響の結果、それが世界なのです。互いに依存し合うということは、互いに責任があるということです。
国民総生産は今や年間8,000億ドルを超えているが、この国民総生産で米国を判断するならば、大気汚染やタバコの煙も含まれています。
しかし国民総生産には、子供たちの健康、教育の質、遊びの喜びは含まれていない。
国民総生産には、詩の美しさや人間関係の強さ、公開討論の知性や公務員の誠実さは含まれていない。
ウィットも勇気も測れない。知恵も学識もない。思いやりも献身もない。
要するに、人生を価値あるものにしてくれるもの以外のすべてを測っているのです。

Dr.Luth/Regenerative Economy

再生経済学の先生、スリットワンピースがお洒落


システム思考について私が気に入っているのは、個人のせいにしないことです。
もし気候変動が起きたら、石油会社が悪いとか、上司が悪いとか、政府が悪いとか、そういうふうに。
しかし、実際には私たち全員が共同してこの現実をつくっている。存在しているだけでその影響は波及していくんだ。
わたしたちは、フォロワーであると同時にリーダーでなければならない。お互いがお互いをフォローし合うことで、創造的な創発が生まれる。役割は区別し、固定化するものではない。関係してはじめて見えてくるものだ。

Dr.Robin/System Thinking
システム思考は、授業の半分が体感ワークだった

私たちはその木やその種を単独で研究しているわけではないのだ。
この樹種は、森の他の樹木やそこに生息する昆虫、鳥、根をつなぐ菌類、そして他の樹木とどのように相互作用しているのかを研究している。
人間の世界は癌であり、体内寄生虫であり、地震や津波であり、人々は不必要な感染症や病気で死んでいる。
たとえ菜食主義者であっても、生きるために命を奪い、生きるために殺す。
世界は悲劇的であり、同時に涙を流すほど美しい。
夕日の美しさ、花の美しさ、木の美しさ、甲虫のカラパスの美しさ、鳥のさえずりの美しさ…。
世界には両面が存在しあいながら相互作用しているんだ。

Dr.Andy/Engagement Ecology
焚火を囲んでの授業 森が近いのもシューマッハ・カレッジの特徴


わたしの人生の大半は、自分と他者のあいだに境界線をひく生き方だったと思う。

「自分のことは自分でやらなければならない」
そうつよく信じて生きてきた。

必要な分を自分で稼ぐのも当たり前だし、自分で自分のご機嫌をとるべきだし、大人なんだから、大抵のことは自分で解決しないといけない。

だから自分1人で頑張らないと、考えないとって思って走り続けてきた。
だからこそ、キャリアブレイクをとったときには、

自分は何も社会貢献、価値発揮をしていない。
自分のことすら自分で出来なくなってしまったわたしになんの存在意義があるんだろう?

と虚無感に苛まれた。

長らく個人主義的な、自己責任の世界で生きてきたわたしにとって、
キャリアブレイクは価値観の転換を迫られる人生の転機だった。

いま振り返ってみると自分ですべてをなんとかするという生き方は、
「自我(=エゴ)の肥大化」でもあった。

すべてはつながっているなんて意識とは縁遠く、
「自分で自分のことをコントロールできないなんて、甘えだ」
くらいに思っていた。

だけど、視点を拡げてみたときに、
この世界は自分でコントロールできることのほうが少ない。

キャリアブレイクで仕事も肩書も、これまで背負った全てを手放し、空っぽの自分になったからこそ、シューマッハ・カレッジの体験を経て

自分という存在はちっぽけで、無力で、儚い。
でも同時に、影響力があって、パワーを持っている。
すべてはつながりの中にあり、自分は世界の一部なんだ

と、実感した。
空っぽの器は、すべてを受け取ることのできる可能性の宝庫だった。

Dr.Andyが言ったように、自分という存在は悲劇的であり、
同時に涙を流すほど美しい存在だ。

よわくて、もろくて、やわらかくて、つよい。
陰と陽、両方を兼ね備えた存在だ。
どちらか片面はありえない。

わたしがシューマッハで受け取ったギフトは、

何をやってもやっていなくても、
わたしという存在の影響は波及していくという実感
だった。


地球の裏側で起きた蝶の羽ばたきがどこかで竜巻を起こすように。
自分の吐いた呼吸が、誰かの呼吸になりめぐっていくように。

だったら、この存在をもってわたしはこの世界に何を貢献していけるのだろうか、そう考えるようになった。

シューマッハ・カレッジで過ごした1週間は、すべての存在とのつながりの感覚を思い起こすことで自分の内なるパワーを取り戻す人生のターニング・ポイントになった。

サティシュ・クマールからもらった、たくさんのギフト

プログラムの中では、サティシュから直接おはなしを聴く時間が2回あった。(それ以外にも一緒にご飯を食べてくれたりと、お話しする時間は予想以上にあった)

サティシュは、わたしたちに、「変化の種を蒔こう」と言った。

大きな動きは草の根から起こるものであり、私はそう信じている。
草の根レベルの人々の運動が、大きな影響を与え、ある種の変化をもたらすのだと。
だから、私たち自身から始め、変化を起こすのです。
音楽を通して、歌を通して、文章を書くことを通して、シューマッハ・コールを通して、あなたができることは何でもいい
だから、変化になりなさい。
変化を伝えよう。そうすれば変化は大きくなる。

サティシュの言葉

サティシュ・クマールという人物は、ヒトコトで言えば
「87歳のおじいちゃん」だ。

サティシュはすべての存在と目線を合わせて話してくれる

だけど普通のおじいちゃんではない。
2年に渡り核保有国を無一文で歩き渡り、マーティン・ルーサー・キングやE・F・シューマッハに面会したスーパーおじいちゃんだ。

ここで気をつけたいのは、「サティシュは特別な人だ」「すごい人だ」と神格化してしまうこと。

神格化は同時に、「あの人はすごい。わたしとは違う」と自分への可能性を閉じてしまう。それは、自分と憧れの人のあいだに境界線をひくことでもある。サティシュは、子どものように目をキラキラさせながら、優しいトーンでわたしたちに告げた。

「あなたたちがサティシュの話を聞くのと同じくらい大切なことは、手を使うことだよ。自分で何かを生み出すんだ。
あなたたちは、潜在的なガンジーであり、キング牧師であり、誰でもあるんだ。あなたたちは、何にだってなれる。」

サティシュの言葉

サティシュは、自分のパワー(影響力)の使い方にも自覚的だからこそ、わたしたちに目線を合わせて、一緒に歌い、踊り、ご飯を共にしてくれる。
だからこそ人に愛され、尊敬され、こんなにもたくさんの人が世界中から彼に会いに来るんだと思う。

とは言え、自分で何かをはじめたり、マジョリティと異なる道を歩むとなると、不安はつきものだ。

一緒のコースに参加していたペルーの女の子が、質問をした。

『サティシュ、あなたの言葉を聞いて、わたしも自分を変えたい、世界を変えたいと思っています。行動する勇気をどのように取り戻したらいいですか?』

そんな質問に対して、サティシュは声に熱を込めてこう語った。

現代は、信頼欠陥病だ。自分自身に対する信頼が欠けている。
自分自身を信じていないし、他の誰も信じていない。お金だけを信じ、システムだけを信じている。
つまり、恐怖こそが現代における最大の問題であり、自分自身に対する信頼の欠如なのだ。
ハートを開いて、勇気を持ち、リスクを冒して人生を生きよう。

私は、先日日本の友人と話していた。
「日本は周囲と同じように、変わったことをするな、勇気あることは何もするな、ただルールに従え、システムに従いなさい、家族のルールに従いなさい、という文化がある。」
と彼は言った。
「いや、違うんだ。」
と私は答えた。

同質性は自然ではない。
すべての木は違う。すべての花は違う。
動物はみんな違う。私たちは皆人間だが、皆違う。
私たちは違いを生きる。多様性は進化である。進化は多様性を好む。
だから、自分が違うことを恐れてはいけない。
勇気を持て。 リスクをとれ。
あなた自身であれ。あなたは他の人とは違う。
あなたは分離しているのではなく、異なっており、多様である。ユニークだ。冒険をしよう。人生は冒険の旅だ。
そして、どんな困難も恐れない。だって困難は人生の一部だ。
だから、人生の冒険、人生の苦難、人生の闘い、浮き沈みを経験することが、あなたを強くするんだ。
すべてが安全でスムーズでなければならない、と私たちの社会は臆病になりすぎている。 私たちは勇気を持ち、行動する必要がある。

心の中で希望を持つこと、それがポジティブシンキングだ。
受動的な希望ではなく、能動的な希望だ。
だから、何かがうまくいくことを願うのではない。
いや、必ず実現させる。私が実現させる、という意志と勇気を持つんだ。

サティシュの言葉


サティシュの想いと熱量が込められたトークを聞いて、わたしの中で何かがうごめいて、湧いてくるのを感じた。

サティシュは人の心に火を灯す天才だ。そしてそれは、わたしの理想とする教育者の姿だった。

サティシュの言葉に、みんなが引き込まれていく


行動しよう。変化になろう。
わたしが実現させたい世界を、わたし自身が創るんだ。

今思えば、それは、
わたし自身が創り手となった瞬間だったのかもしれない。

1年経ったいまでも、サティシュからもらったギフトは色褪せず、
シューマッハで体験したつながりの感覚はわたしの中にたしかに根付いている。
今回参加したコースは5日間だったにもかかわらず、未だ瑞々しいエネルギーが残っているのって、すごいことだと思う。

ちなみに、シューマッハ・カレッジはわたしと同じ1991年に誕生している。32歳でシューマッハ・カレッジに行けたことは喜びであり、必然だったのかもしれない。

帰国後、何をどのように行動したのか

帰国してからすぐに、わたしは日本にもシューマッハのような、唯一無二の自分に目覚め表現していく学校を創りたくて、「つながりの学校」を創立した。

わたしの5歳の時の夢は、学校の先生になることだった。

だけど、日本の学校が嫌いだった。画一的な詰め込み教育に価値を感じられず、学歴至上主義の社会が嫌だった。
社会人になってからも、人事職や企業の研修設計を担当したけど、どれも結局は一斉研修であり、技術や能力的な側面を養うものばかりだった。


だけど、シューマッハ・カレッジで、その人自身に目覚めるような教育が実現している世界を目の当たりにした。

それがグループダイナミクスの中で実現できることも身をもってわかった。

だからわたしも、ちいさくても日本で出来ることをやっていこうと思った。
どんなにちいさくても、一歩を踏み出そう。

シューマッハで受け取ったたくさんのギフトの種がカタチになったのが、つながりの学校だった。

つながりの学校を創立して、リアル&オンラインでたくさんの場をひらいた。この1年で、30以上の場を企画し、281名に出逢うことができた。

情熱おもむくまま走り続けてきた1年だったけれど、振り返るとしっかりと道ができていた。

もちろん、渦中は楽しいことばかりじゃない。
人が集まらなくて困ったり、資金が無くて困ったりもした。

それでも、その都度で家族や友人たちに支えられながら、ひとつひとつ乗り越えて進んできた。最善は尽くすけれど、1人でやらない。そして、困難があっても、あきらめない。
リスクや恐れがあっても、冒険する道を選ぶ。

それがここ1年でわたしが取り組んできたことかもしれない。

やってみたからこそ、得たものがたくさんあった。

6か月間のプロセスを経て、唯一無二の自分を取り戻し行動していくメンバーを見て、涙が出るほど心がアツくなる瞬間がたくさんあった。

出逢った当初は2度適応障害になり悩んでいたけれど、
自分だからこその人生のルーツを受けいれ、
大好きな食が最後まで愛を持って届く世界をつくりたい、と廃棄のない食の循環システムづくりに模索するメンバー

わたしには何もない・・・と14年ものあいだ悩んでいたけれど、
ちいさなころから詩や小説を書くのが好きだったことに気づき、
詩の個展を開催し、自分の内面を表現する喜びを体感したメンバー

ネガティブな感情を発する人には触れたんくない、と思っていたけれど、
どんな存在も等しく相互に認め合える世界が自分もミッションだと気付き、他者に愛と思いやりをもって関わることを決意したメンバー

「命をかけてやりたいことは、旅です!」と人生の使命につながり、
現在世界一周の準備を周りを巻き込みながら実践するメンバー

それぞれに物語があり、想いがある

こんな風に、それぞれの唯一無二を表現しあい、みんなで応援しあう場がすこしずつ育まれていることがうれしい。

この背景には、シューマッハ・カレッジがあり、過去のわたしのすべての経験があり、出逢った仲間たちがいて、わたしを生んでくれた両親を含めていつも支えてくれる大切な家族がいる。

ぜんぶ、ぜんぶ、つながっている。

なにひとつ、無駄なことや無かったほうが良いことはない。

すべての経験が点となり、そしてひとつの物語となる。
そのすべてが唯一無二で、オリジナル。

誰にだって、唯一無二の人生がある。その人らしさがある。
それに本人自身が気付いてゆく場を、わたしはこれからも創っていく。

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\つながりの学校3期メンバーを募集中/
8/8(木)に、体感ワークショップ&説明会を予定しています◎

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\8/3、サティシュご本人の講話もあります!/





あなたが自然体で、心地よく過ごせるのが一番のサポートです💐