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[映画レビュー]「ルックバック」の感想と考察

映画版ルックバックの感想&レビュー&考察の記事です。


はじめに

私はこの作品の漫画版を読んだことがありました。映画版は気になっていたもののスルー、していたところ早くも2024/11/8にAmazon Prime Videoで配信開始されていたので観てみた感想です。なお個人的解釈が多く含まれますので、あくまで一意見として読んでいただければと思います。

漫画原作を含めこの作品は
何かに情熱を注いだことのあるすべてのひとへ
おすすめします。
1時間ない映画ですのでぜひ一度鑑賞していただきたいです。

以降は私の感想と個人的解釈を記載します。
あくまで一個人の意見として読んでいただければと思います。

【注意】以下ネタバレありです。まだ観ていない方はご注意ください!



コミックス版との違い(1)サウンドトラックが良い

動きに加えて音楽が入る事でより世界が広がるのが映像化の良いところのひとつです。
結末を知っていることもあり、オープニングの藤野の背中と音楽だけでもう泣いていました。
ピアノと数本の弦楽器のシンプルな構成で、繊細な心情を表現しており、台詞のあるシーンでは控えめに、思い出のシーンでは色鮮やかに、世界観をより広げる働きをしていて場面場面で心を揺さぶられました。エンディングテーマもすべての人への救いとなるような賛美歌になっていて、私はしばらく動けませんでした。漫画からさらに空間、世界観を広げる素晴らしいサウンドトラックとなっています。
似たアニメ映画の音楽で「おおかみこどもの雨と雪」「聲の形」のサウンドトラックが好きな私にもろに突き刺さっています。私と同じ感覚の方もおられるのではないでしょうか。

コミックス版との違い(2)ここぞというところで動く

この映画中、もっとも躍動的に描かれていたのは、藤野が雨の中を走るシーン。アニメーターの方の熱意や気持ちがあふれ出ていました。藤野の不器用な強い喜びの表現がおかしくもあり、青春の弾けるような勢いを感じて私は結構好きです。これ以降映像にも動きが少なくなるためより際立っています。
自分か勝てないと思っていた才能に自身の能力を認められた喜びから始まり、自分に嘘をついて蓋をしていた思いを爆発させて全力で家へ走っていく流れがUターンのアングルで上手く描かれていました。
全身濡れたままで部屋まて戻り漫画を描きだす姿は希望に満ちていて、見ていてうれしくなります。

コミックス版との違い(3)シーンの追加

印象的なのは藤野が京本の手を取り、前へ向かって走っていくカット。確か漫画ではなかったシーンのはず。映画内では素晴らしい音楽とともに何度か回想シーンで流れ、この映画の象徴的な場面だと思います。同時に藤野の躍動、スピードに京本が徐々に引き離されている感じもよく出ていました。「私は絵を描くのが遅いから」→「絵がうまくなれば描くスピードも速くなる」
これが京本が美大に行きたい動機の一つへ自然につながります。

もう一つ、藤野が編集者?らしき人と漫画家となりアシスタント候補の相談をしているシーン。多分これも原作にはなかったはず。藤野のアシスタントへの要求が、京本像そのものであることがうかがえ、同時にいつか京本が戻ってきてくれることを期待しているようにも見えます。この後美大での事件を知るシーンへのつながりとしてより藤野の動揺がより際立つ作りになっていてよい追加だと思いました。

堂々のオマージュ主張

私が初回で見つけたのは、藤野の部屋にタイムリープものの名作映画「バタフライエフェクト」のポスターがありました。ひとにも持つ普遍的な葛藤「あの時ああしていればどうだったのであろう」がどの時代でも作品化され、人々を惹きつけます。この作品もそのエッセンスはあるのですが、これをSFとして理解するのは作品の第一層部分かと思います。この作品の階層構造解釈については後述します。

他の方も多くの映画オマージュネタを見つけられているようです。
コミックス版でも元ネタと思われる映画やCDジャケットが堂々と描かれていたりします。
「みんなこれくらいの作品は知ってるよね?」を前提とした内容であることに気付くと、よりこの作品の楽しみが広がると思います。
それら作品の元ネタが前提であるその上に新たな仕掛けがあると考えたほうがいいのかもしれません。

作品の階層構造について考察してみる

既に多くの方がこの作品の考察をしておられるようですが、それらをあまり読まないうちに自分なりの考えをまとめてみました。
この作品が評価されている理由の一つに色々な読み方、捉え方ができていること、様々な考察ができることが挙げられると思います。
芸術作品に共通しているのは、作品を観た人自身が作品をどう解釈するか考えることにも意味があることだと私は思うので、私なりに考えを巡らせせてようと思います。

私が改めてこの作品の映画版を観て思ったのは「何段階かの解釈の階層構造があるな」でした。
以下私のメモ代わりにざっくり書いてみようと思います。

第1階層: ちょっとSFなタイムループもの

これはもっとも素直な、ハッピーな結末としての解釈です。
京本の葬儀後、あの扉の前で「私があの時京本を外に連れ出さなければ」と後悔し、京本を外に連れ出すきっかけとなった4コマ漫画を藤野が破り捨て、その1コマ目の断片が扉の下を通過したシーン。
この解釈では扉はタイムループのゲートとして機能しています。あの時の京本が受け取る4コマ漫画が変化したことでバタフライエフェクトによって京本は死なず、2人が新たな出会いをする別の世界線が生まれます。
「もしもあの時ああしていれば」の後悔によって発生したちょっと不思議な世界です。
元の世界の藤野は別の世界線の生きている京本から何気ない4コマ漫画「背中を見て(Look Back)」の「返信」を受け取り、そのメッセージを胸に前へ歩みだす、という少し寂しいものの希望が残る結末と解釈ができます。


第2階層: 藤野自身を救うための自己解決

これは"タイムループもの"解釈が藤野の創作だったという解釈です。
破り捨てた4コマ漫画に対する"返信"4コマ漫画を藤野が発見した際、なにか不自然さを感じました。
まず内容やオチ、絵柄が藤野っぽい作風であること。京本が藤野の熱心なファンであるなら模倣も容易かったかもしれませんが…しかし京本の部屋の窓に貼られた別の4コマ漫画はどれも風景のみが描かれた小学校時代と同じ作風でした。
またこの漫画の画と藤野の姿が同じ画角で同時に描かれるシーンは一度もありません。本当にあの時みた漫画と読者に見せられたものは同一のもだったのか?
私の想像では、あの4コマ漫画は

  1. 昔藤野が遊びで描いた4コマ漫画だった(京本が描いたものではない)

  2. 空白の4コマ漫画

のどちらかだと思っています。

1のケース
このケースの場合、昔気まぐれで描いた漫画の内容が、たまたま今回の事件のシチュエーションに似ていて、京本を救えていたかもしれない別の世界に見えたのでしょう。それが扉からあたかも「返信」されてきたように出現したことで、作中で描かれた別の世界を思いついたのかもしれません。その世界があると信じること自体が藤野にとっての(あるいは読者にとっての)救いとなります。

2のケース
自分が漫画家を目指した原点が示され、なぜ漫画家になりたかったのかを振り返り、「この空白を埋めてみろ」という挑戦と受け取ったのかもしれません。ここでの空白とは創作を続ける意味でもあり、この喪失感へ納得いく結末(決着)を決める意味でもあります。このケースの場合、最後のシーンの段階で窓に貼られた4コマ漫画はおそらくまだ空白です。この4コマ漫画を埋めることができるようになるため、藤野はまた創作活動へ没頭する、という結末になります。読者に示されていた4コマ漫画はその後藤野が自分自身を救う為のストーリー「タイムリープの別世界線」を創作し、描き込んだものであり、藤野が自身の創作によって自身を救い、前を向いて進んでいることを暗示しています。


いずれのケースにしても現実にはタイムリープしていたわけではなく、藤野が「これは京本からの何らかのメッセージに違いない」と信じたのでしょう。
そして自分が何のために漫画を描いていたのかを思い出します。
涙の中京本と過ごした多くの日々を回想し、その最後のカット、読者としての京本の笑顔。
京本の部屋は藤野の作品であふれ、読者アンケートも書いているようでした。京本は最初から最後までずっと藤野の一番のファンでした。
「なんで藤野ちゃんは漫画を描くの?」
に対する答えをここで思い出したのだと思います。

京本の部屋で立ち上がり歩き出すシーン。ゾンビのような、病的な足取りで描かれています。
読み返していた自身の漫画の最後のページに書かれた「続きは12巻で!」の文字。
きっとこの時点では多分まだ自身を救う方法を見出せていません。
しかし「京本も待っていたその続きを、描かなければ」という強い信念で立ち上がり、歩き出したのです。

その後創作活動を続ける中で、作品内で描かれていた別の世界線のストーリーに到達。自分の中で消化し、大きな喪失に対する決着を付けたのがこの映画で描かれているのだと思います。


第3階層: 漫画中の漫画というループ

これは少し無理のある解釈かもしれません。
作中で作者がタイムループもの作品をかなり多く暗示しているため、そこからオリジナルの別の軸のループを仕込んでいるのではないか、という考えに至りました。
この作品の原作(漫画)はその題材として、漫画作品内の創作作品になぜかまた漫画を選んでいます。
作者が漫画家だから感情移入しやすく描きやすいのは当然なんですが、藤野や京本が熱中したのが漫画でなくても絵画でも彫刻でもなんでも成立するストーリーなんですよね。
漫画内で漫画を描かせることでここにまたひとつのループができると思うと、別の解釈が生まれます。

この作品自体が藤野が描いた漫画なのではないか。
この作品自体が作品内の作品であると考えると色々恐ろしくなってきます。
"藤野"も"京本"もそのなかで起こった出来事も、その一部あるいはそのすべてが創作かもしれないという疑念も生まれます。

仮にほぼ"藤野の現実"に沿って書かれたとしても、時系列が変わってきます。
いなくなってしまった"京本"の喪失を埋めるべく、この作中の結末以降にこの漫画を描いていることになります。

そうなると前半に描かれていた京本の「ずっと藤野先生のファンでした」「私を外に連れ出してくれてありがとう」などの言葉は、藤野の願望で、藤野自身を救うために作品に加えた言葉の可能性も出てきます。

つまりこの漫画を描いている作者、"藤野"と名付けられた作者、あるいはこの漫画の作者自身が
「(漫画は、あらゆる芸術作品は)描いても何の役にも立たない」
と自問自答し、その答え
自分自身も含めた誰かの希望となり、前へ向いてもらうための創作活動
がこの作品を生み出していると解釈できます。


本作品はよく京都アニメーションの事件との関連を言及されることがあります。
私は藤本タツキ先生のことを知りませんし、そこに知り合いがいたのかどうかもわかりません。
ただ同じ創作を志しながらもいなくなってしまった人達に何か強く思うことがあったのではないかと想像しています。

そのタイトルとエンディングから、
「私はもう前を向いた。辛くなったら私の背中を見ろ」
と言っているようにも私は感じました。

まとめ "背中を見て"

私はいわゆるアーティスト界隈の人間ではありません。どちらかというと研究者寄りの人間ですが、そんな私にも刺さる作品でした。

何かを目指して日々頑張っている人たちが直面するであろういくつものイベントがこの短い作品内で怒涛の如く押し寄せてきます。

  • どんなに頑張っても勝てない才能の出現

  • 尊敬する人に認められた喜び

  • 辛いときも楽しい時も一緒に過ごした仲間

  • 努力が報われた瞬間

  • 成功の階段を駆け上る感覚

  • 突然の喪失

  • 自分が積み上げてきたことへの疑念、迷い

  • 決着をつけ、前を向いて歩きだす

みなさんも何かの出来事がきっかけで時には不安になり、立ち止まってしまったこともあったでしょう。

そんな迷える人たちへの、これまで辿った道への賛美でもあり、これからの歩みへの後押しであるように感じました。

タイトル「ルックバック」にはいくつもの意味が込められていそうですが、私には
「振り返ってみて、大切だったものを思い出せ」

「振り返らず、前を向いて歩め(私は歩んでいくことを決めた、という覚悟)」
の相反する二つの意味が見えました。


創作活動や研究活動は似ているところが多いです。誰よりも先を目指すほど孤独で過酷な道になります。
エンディングロール中、朝から晩まで創作活動に打ち込む藤野の後ろ姿、そして俯きながら帰っていく姿に、残酷な現実とそれでも歩き続けることを決めた強い覚悟を感じ、心を打たれました。

どんな仕事も努力すれば必ず成果が保証されるようなものではありませんし、私自身もこれまでの選択は正しかったのか、いつも不安な日々を過ごしています。そのような方は大勢おられるのではないでしょうか。
この作品は自分の大切だったものを思い出す機会を与えてくれました。
みなさんが藤野の背中に感じた気持ち、想いは自分自身へと送られるべきものです。これはきっとそんな作品です。

この作品に関わったすべての人に感謝です。


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ミズネコ
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