要するに言葉でわかった気になっても全部逃げていくということですよ
ALOHA! みゆひょんでーす♪
禅問答(公案)が大好きですw
京極夏彦さんの『鉄鼠の檻』を読んでおもしろいなと思ったのがきっかけです。ちなみに京極さんとは同い年です。どうでもいいけどw
コロナ禍前は坐禅会に行ったりもしていたのですが、コロナ禍で一時中止になって以来ご無沙汰です。どっちにしてもフルタイムで女性の格好をするようになってからは行きづらいんですよ。なぜなら男女で控え室が違うから。
控え室でお着替えしたりする人も多いので、女性用の控え室はやっぱまずいかなと。とはいえ男性用の控え室でお着替えしたくないし・・・
ということで坐禅とかもせず、書物で禅問答を楽しんでいます。もっとも邪道な禅との関わりかたと思います。今回書くことを永平寺なんかでしゃべったら、お坊さんたちに取り囲まれて、警策でボコボコにされるかもしれません。
でも禅の本を読んで、それなりに得るものがあるからいいじゃないですか。
ということで今回は、野狐禅(知ったかぶりの禅)仲間を求めて書いています。ちゃんとした禅をされている方には本当に申し訳ありません。
意味を考えてもしょうがない
公案を読むたびに、これはどんな意味なんだろうと一生懸命考えた時期もありました。
でもねえ、たとえばこんなのを読んで意味を考えて、それこそ意味があるんだろうかと思うようになったのです。
むちゃくちゃ有名な公案です。
1斤は約600gで、麻の繊維か実かわかりませんが、それが1,800gほどが仏だと言うのです。ちなみに洞山和尚は麻を栽培していたとのこと。え、やばくない?w
洞山和尚が麻でなく、ヘチマを栽培していたら、「仏とはヘチマ3個」などと言っていたに違いありません。要するに何でもいいのです。問われて瞬間に気合いで答えることが大事なようです。
これについて、慶応から昭和にかけて生きておられた名僧・山本玄峰師は、
また、
とおっしゃっています。
わたしなどはまさしく是非善悪、可否得失を論ずる人、要するにネットにあふれかえっているごくふつうの人なので、わかる道理がありません(T^T)
ですが、こんなことを言えば玄峰師に喝を入れられるに決まっていますが、わかったからどうなのだろうと思うのです。
不立文字と言いまして、悟りの道も悟りそのものの内容も言葉では伝えられないというのが仏教の根本的な教えではなかったでしょうか。
あえて言葉にするならば、仏というのは何でもいいというか、世の中の至るところにあるもので、そのうち何かのきっかけで蛆虫でさえ仏に見えることがあるのだ、ぐらいの解釈になりますが、そんな解釈が何の役に立つというのでしょうか?
強いて言えば行動が大切
悟りとは真理を得ることですから、そんなに簡単に得られるものではないと思います。だからお坊さんは厳しい修行をする。それでも悟れない人は悟れない。きびしぃなぁー!
あえて日常生活に近づけると、文字だけ読んでできることはまずありません。勉学でも技術でもスポーツでも芸術でも、やってみないとできるようにはなりません。独学でものになることもありますが、だいたいのことは先生につくのがいい。特に体得が必要なことはそうです。
禅も不立文字というぐらいですから、最終的には体得するものだと思うのです。だから出家する人は出家しますし、わたしたちのような在家は坐禅会に参加したりするわけです。
ですが坐禅会に参加するといってもなかなか大変です。何かきっかけがあれば、そのうち蛆虫が光り輝いて見える日が来るかもしれません。そう思って真剣に生きていればいいのではないでしょうか。
くれぐれも言葉でわかった気にはならないことです。禅の公案でも、わかった気になった若いお坊さんが、老師に散々とっちめられる話がやたらに多いのです。「絶対こいつ殴られるな」とすぐにわかるので、気の毒になるほどです。
要するに言葉でわかった気になっても、というかわかった気になった瞬間、真理は全部逃げていくということです。
なんて偉そうに書きましたが、わたしなどは真理に逃げられっぱなし。くやしいというか残念な日々を送っております。でもこういうのが好きでやめられません。