愛で潤して、毒を吐き出した

子供のころ、父が洗面所で水道を出しっぱなしにしていることがよくあった。


出しっぱなしにしながら鏡の前で歯磨きをしたり、ひげを剃ったり。わたしはそれを見るのがどうも不快で、よく父の前に手を伸ばして蛇口を止めるために、わざわざ洗面所に向かっていた。

もったいないし、ただ流れていく水が可哀想だと思った。その気持ちと同じように当てはまるのが携帯の充電だった。もちろんそのころはスマホではなく、パカパカケータイで、メールアドレスがVodafoneやezwebだった時代だ。

数字がどんどん減っていくことで不安になったり、充電器は電気によってずっと無駄に働かされている気がしたし、姉が携帯を乱暴に置いたときや落としたときは悲しい気持ちになった。携帯という機械そのものに対してというよりは、きっとその人の行動に対して苦しくなったんだろう。

今思えば感受性豊かだと思うし、ここまで酷くはないにしても時々、似たような気持ちが別の形で発症したりする。発症という言い方をしたのは、自分にとってはなくしたい感覚だったからだ。だんだん、父が洗面所にいるときや姉がずっと携帯を触っているところを見ないように避けるようになっていた。

努力や積み重ねや結果とはまた全然別のところで、そういう感覚に対しての処置として全体的にバランスをとろうとする癖がある。
そしてそれを、大きな〇で囲みたくなる。これはきっと私なりの防衛本能。

みんなきっとそれぞれがそのバランス感覚をもって生きているんだろうと思ってはいたけれど、大学生の頃、友人と共有できる部分を感じた。それに気付けたのは大学を卒業してからだったので、大学生のころに縁が切れなくてよかったと今改めて感じる。

感じたものに対しての行動は全く違うけど、受け取り方が似ているのだ。彼女は、防衛本能として拒否と攻撃が鉄板で、そのころのことを今でも思い出して謝罪することがある。わたしはそれを彼女の思春期として大きく囲っている。

ある日、彼女が当時の彼について「どう思ってその行動したんやろう」とひたすら理解しがたい出来事があったと相談してきた。わたしは、受け取り方は同じでもきっと違う対処方法を取るという結論を出したのだが、その疑問をベースにネットサーフィンをして調べてみた。そして二人で腑に落ちた言葉をいくつか見つけた。脳科学というものがあるのだと。そして、世の中の3割の人間がこの受け取りをするのだと。私はさらに大きな〇で囲んだ。

そおいえば別の友人には、魂レベルがちがうんだ。と神々しいセリフを言われて笑ってしまったことが懐かしい。これは囲まずに脳内に付箋で残している。

友人との過去の会話がすべて線で繋がった。
それがおおきい丸で囲んだ愛と毒だった。

アルコールを口に含み喉を潤わしたあとに、しっかりと毒を吐き出す。吐き出す礼儀として自分の立ち位置を土台に、なぜそう思ったのか語り、悟った愛で締める。
わたしたちにとって愛と毒、それぞれの重みで喜怒哀楽を体に沈ませるのにとても馴染みが良い。

学生のころからの友人だからではなく、きっとどこで出会っても今みたいな関係になれていたと思える唯一の友人だ。

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