ふれる〜超初心者の茶道 清泉
肌にあたる秋風が心地いい。
茹だるような汗ばむ夏から一日一日季節がめぐることを思うと、年の暮れにむけて時間が加速していく気がする。気持ちと頭と手が追いつかない。やるべき事ややりたい事が山積みでそれらが大きくなり、山の数も増えてしまっている。茶道の心得でもあるはずの、スッキリした理想の状態とは程遠い。
この茶道noteもその一つで、中途半端のまま今日が終わっていく。
二十四節気では『寒露(かんろ)』…草木に冷たい露が宿り寒さを感じる頃。
七十二候では初候 鴻雁来(こうがんきたる)…
冬を日本で過ごすガンが北から渡ってくる時期。
いつも二十四節気をヒントに季節の言葉を探しては、茶道のお稽古の茶杓の銘にしている。
今頃夏のことを書くということに少し違和感はあるけれど、山が紅葉で真っ赤に染まる前に、蝉の声が響いていた茶室での記憶を残したい。
稽古終わりに床の間の写真を撮らせてもらっていたが、仕事のためにバタバタと帰る事が多かった。
地下鉄の中でその日の床の間の花の名前、掛け軸の言葉、お点前で何度も注意をうけたことを思い出してメモを残した。
7月と8月は紗の着物をと用意していたけれど、あまりの暑さに袖を通すことを断念した。今年の夏は息苦しいほど猛暑日が続いた。
夏は涼のおもてなしをと、さまざまな夏の道具たちが茶室を飾った。
涼を呼ぶ工夫
スッキリとした畳に置かれている口の広い、深さのない青磁色の平水指(ひらみずさし)は見事だった。漆の割り蓋を半分あけると、溢れんばかりにたっぷりと水が張った様子に客席からも思わず声が上がる時もあった。
一つの水指には必ずそれに合わせた蓋がある。
信楽焼の水指の大きな漆の一枚蓋を開けると、青のグラデーションが湧き出る泉のようで息を呑むほど美しい。水指の中の様子はお点前をする人から一番見えるので、わかっていながらその美しさに毎回嬉しくなる。
唐津焼の水指に蓋代わりに大きな梶の葉をのせた"葉蓋のお点前"も七夕の時期から夏の時期限定のお点前だった。
今年は二度、葉蓋の稽古ができた。
「大きな梶の葉が手に入りました〜」と先生は嬉しそうだった。
『天の川 とわたる舟の梶の葉に おもうことをもかきつくるかな』 上総の乳母 後拾遺和歌集
この和歌の梶の葉は、天の川を渡る舟の舵(かじ)と梶(かじ)をかけているとか…。
そして昔の人はこの大きな梶の葉に和歌をつらつらと書くこともあったり、葉の裏に願い事をかいて川に流したりしていたと聞いた。
道具が変わるとお点前の仕方もかわり、戸惑うことが多いけれど、先生は毎回違う道具を用意して楽しそうに道具のことを話して下さった。
私が一番難しいと思っている"絞り茶巾のお点前"。
いつもは水屋で絞って三つ折りにして畳んで仕込む茶巾を、"絞り茶巾の点前"中に行い、その様子を注目されているので適当にはごまかせない。うまく出来ない後ろめたさがあると集中が欠けるので上手くいくはずがない。そんなもたもたした手つきでも、唐金の建水に茶巾を絞る水の滴る音が静かな茶室に響くと、凛とした気持ちになる。それはひんやり冷たい水に触れた感覚になるから不思議。
その音が響く瞬間だけはこのお点前が好きだなぁと思う。来年はもう少し上手くできるように練習しようと思う。
薄茶で使う涼しげな平茶碗
空気に触れる面が広いと熱いお茶も早く冷めるので飲みやすくなる。
お茶を点てるときはお茶が茶碗から飛び跳ねないかいつも以上に心配しながら茶筅をふった。
濃茶の時の主菓子は、水羊羹や葛饅頭、透明で涼しげな綺麗な水色など見た目も味も満足だ(๑˃̵ᴗ˂̵)
茶道には畳の目何目に道具を置くとか、右足から入る事など様々な決まりごとがある。
決まりごとだらけだけど、実は非常に合理的。
左のものは左手で受け取り、右のものは右手で受け取るなど、その当たり前に理由がちゃんとある。
お点前をするときは、やはりその人の癖は多少あるものの、『あれ?なんか違うよね』と見る人が思わないように、流れるように淡々と進めていく事がお客様の心地よさに繋がる心遣いになることだと、少しわかるようにもなってきた。暑い時には涼しくし、声をかけるタイミングを学び、心遣いや想いをくみ取り、それに対して言葉を交わす。
私は知識が乏しいためわからないということが多く、気の利いた一言を返すことがなかなか言えない。
日本の伝統文化の茶道を少しふれてみたけれど、そこはとんでもなく広くて大きなところで3年たったいまでもまだまだ茶道の入門をウロウロしている。今私が習っているものは、調べれば出てくるし、本もあるし、なんならYoutubeでもお点前の方法は確認できる。先輩方がされてる茶道ははどうやら本も資料も調べても出てこないらしい。
稽古時には頭で記憶して、帰って自分で"ノート"を作って、記録してそれを自分で更新していくという作業をしていると先輩方は仰る。
お茶の稽古の時、うまくいなかいことがあたり前なのにそれでも気分が落ち込むことが多々ある。
何にでも対応してかっこいい"できる"女性になりたい。茶道に限らず、仕事時間は特に最近はそう思うことが多くなった。
それから、記憶を記録していく、こういう整理整頓できる才能がほしい。
掛け軸
茶室に入るとき、最初に床の間の掛け軸を拝見しその後花を拝見する。
床の間の掛け軸は読めないものがほとんどだけど、扇子を前に置き拝見すると、凛とした気持ちになったり、情景が浮かんできたり。
花入の花にうっとりしたり、キュンとなったり。
正座して見上げて読んだり見たりする時の時間は、ゆったりと流れていてとても落ち着く。
澗水湛如藍(かんすいたたえてあいのごとし)
水は無色だが、満々とたたえた淵では深い藍のような色になる。変化の中に不変の真理が宿っている、という意味の禅語。
これは、
「龍云く、山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し。」からきている。
桜の花が満開で、全山錦を広げた美しさはいかにも永遠のようだか、風が吹けばひとたまりもなく散ってしまう。真っ青に湛えて波一つ立てない、谷川の淵の水はいかにも永遠の生命の如くであるが、水は滾々と流れ、同じ水がじっとしている訳ではない。命の短い桜の花の刹那の中に、滾々と流れて止まん谷川の水の中に、流れない永遠を発見しなければならない。
山は山 海は海
禅語で「山は山 水は水」とある。
山は山として水は水として完結している意味。そのままでその存在を十全に発揮している事。
色紙に山と海の挿絵が入っていて、茶室が野点をしているように爽やかだった。
清流無間断(せいりゅうかんだんなし)
清らかな流れは絶えることなく流れつづけている。涼しさを誘う言葉。
流れる水は澱みがなく絶えず努力し続ける事が大切だという意味もある。
清風拂明月 (せいふうめいげつをはらう)
9月に入ると"月"(お月さま)を思わせる掛け軸や茶碗に出会えた。
中秋の明月、そして満月が輝いていた夜空はいつまでも眺めていられるとても美しかった。
この句は、
「清風拂明月 明月拂清風」(せいふうめいげつをはらい めいげつせいふうをはらう)と続くようで、その意味は、
「秋の夜分、明月と秋風は互いに主となり客となり、どちらが主体ということもなく、決して対立しあうようなものではない。善か悪か、成功か失敗かという二元論ではなく、相手の中に自分を生かしていく…」というちょっと私には難しい…。
茶花
ソマ籠や有馬籠など籠に入った夏の花。
先生のお庭の植物は例年よりも小さく、咲かない花もあったと仰っていたが、床の間は毎回美しい景色を眺めることができた。
「2、3日前からそろそろかなと思っていた花が今朝やっと小さなつぼみをつけてくれました」
そういいながらよく見ないと気づかないような小さな小さな蕾がちょこんとついている。
背の高いやぶみょうが
葉がハート形のしゅうかいどう
薄紫色の小さな花びらが幾重にも重なるまつむしそう
真っ白にぱっと大きくひらいた木槿(むくげ)
***
夏のはじめ、お茶会で初めて薄茶平点前という基本中の基本のお点前をした。茶会でお点前をすることは、どうやらとても貴重な経験だったらしく、一度も機会に恵まれなかった人も多くいるよと後々先輩方が話してくれた。
ということは、もしかしてこれが最初で最後だったのかもしれない。
お茶会までの1ヶ月間は、歩き方、立ち方、お点前の手順、細かい所作、今まで曖昧に覚えていたことを一つ一つ思い出しては書き留めてを繰り返し、本番はなんとか間違えることなく出来た、と思っていた。
水屋にもどり大きく安堵した矢先、先生から
「灰形を壊しましたね。」
「……?」
トラブルなくやり終えたー!と思っていただけに壊したの意味が分からず、頭が真っ白になった
。
灰形(はいがた)とは、釜を据える風炉は中に炭が入れられるように灰が入っていて、灰を押さえながら形を整え完成した形を灰形という。お点前が終わるとお客様たちは、全ての道具を拝見するためにじっくりと眺めにくる。
お点前中に柄杓の水滴が2.3滴と落ちた跡が残っていて、そのうち一滴はツーと灰形に滑っていったような跡が残っていた。
朝から釜の前に正座して黙々と時間をかけて灰形を作っていた専門職らしい男性の後ろ姿を思いだし、これは大変なことをしたのだと思った。
「なんとか急いで直します」
と、先生は次の回が始まる前に大急ぎで作業された。
私は自分の失敗に気づかなかったことにまた一層落ち込んだ。
終わってみると初めてのお茶会のお点前は私にとっては苦い経験になった。
茶道は難しい、と時々心が折れそうになる。
でもどんなに素晴らしい道具やお点前をしても肝心な事は、お茶を美味しく点て、お客様に満足して帰っていただくことが一番大事です、
と先生はいつも朗らかにいう。
失敗した後どう対応していくかが大事というけれど、失敗そのものが怖いなと思うようにもなってきた。