氷の聖人と真っ白な世界
氷の聖人と名前のついた曜日がある。春真っ盛りに突如としてあわられるまさしく中世より伝わる気候の聖人。毎日いろんな聖人がいてややこしいのだが、この氷の聖人達だけは、あちこちで囁かれる。二、三日おかげでしっかりと寒い。下界では雨が続き、天上では雪が降る。
それまで春通り越して夏になるんじゃないかっていう太陽の暑さも一気に何処かへ消え、窓を開ければ、霧のミストが静かに室内に入ってくる。テラスで霧に包まれながらコーヒーを飲む。眼前に広がるはずの壮大な山の景色は真っ白に覆われて何も見えない。
青いフードを被り、ジーパンにスニーカー、耳には赤いヘッドホン。家を出ればそこは冬はスキーのピストとなる山の急斜面。行き先は降りるか登るしかない。真っ白に覆われた空間は一息中に入るとその前後は雲の中。自分の周りの道が束の間だけ見えてくる。黙々と濡れた山草の上を滑らないように一歩一歩確かめながら登っていく。
そこへジャッと気配を感じてハッとなる。
後ろを振り返れば、霧から姿を表したのは、自転車をおしている男の子だった。彼も黒いヘッドホンをしていたので、前を歩いていた私が突然現れたかのように笑った。
そのまま、また雲の中へ消えていく様子を後ろからじっくりと眺めた。後ろを振り返っても、また真っ白の世界。
山の上に着くと一度音を止めた。流石にこの世界じゃ音が聞こえないと車の気配が分からず危険だ。すると、牛の鈴音がやけに近づいてくる。しばらくすると、大量の牛達が雲から走って現れ、私の目の前に近づいていた。それからまた、雲中へ走って消えていく。いつの間にか、山は牛達の住処となっていた。
うっすらと浮かび上がるベンチに腰掛けて、何も見えない景色をみる。
ほら、ここから見るとさ、こんな綺麗なスイスでさえ、黒い空気が見えるんだぜ。
いつかのピエトロの言葉が蘇る。
身長の高い物腰の柔らかい不思議な男。出会った頃、彼のイタリア訛りと私のヨチヨチ歩きのフランス語での会話は、まるで不思議な解読でもあるように成立していた。彼はいつも甘いものを運んでくる。初めて出会った時も、エスカルゴだと言って、美味しいレーズンパンを持ってきて一緒に食べた。
午後は何をするんだい?
特に何もないよ。
じゃあ、ドライブに行こうか?
出会って初日もこうやって普通に、おもちゃのような60年代の緑色の車がボンボンって地面を滑って、行き先のないドライブに出かけた。
この車でミラノからローザンヌまでやって来た大学教授がそのまま向かった先は、仕事場ではなく小さな村だった。
そこは、木彫りで出来た人形や動物が所狭しと並んでいて、家々も何だかんだメルヘンのような可愛いお花に囲まれている。魔女が作ったかのような、不思議なところだった。お互い顔を見合わせて、ここを散歩しようとなった。
春の陽気な日差し、鳥のさえずり、お互い特に会話するとでもなく、この誰一人といない、小さな田舎道を進んでいくとぱあっと草原に出た。
そこには、眼前に街の集落とレマン湖が見えた。
大きな身体を上下に目いっぱい伸ばして、彼は大きく欠伸をした。
それが合図となり、草原に腰を下ろした。
おっと、待って汚れるといけない。
と、自分のジャケットを草の上に引く。
ジャケットの方が汚れるじゃない。
そんなのは、汚れたって大丈夫だ。
まつげの長い優しい目でお茶目な顔をして、自分はさっさかとデカイ風貌を草に埋める。
ああ、日差しが暖かい。
そのまま。
気がついたら二人して気持ちよく昼寝をしていた。
おお、寝た。とまた彼は前後に身体を引っ張る。そして彼はこう言った。
ほら、ここから見るとさ、こんな綺麗なスイスでさえ、(大気汚染で)黒い空気が見えるんだぜ。
ここから見える景色は今は真っ白だよ。
元気かな、ピエトロは。
教授のおじさまと言うよりは、まるで昔から知っているような、何だか気のおけない親友って感じ。ロマンティストな彼とはいつも恋愛話で盛り上がり、というかほとんど、どう思うって真顔で相談されてた。
その後、ミラノ、ジェノバ、トリエステとイタリアの様々な所でいつもひょんなことで突発的に再会した。美味しい一品と共に。
最後に会った時は、もう車ですらなくて、大柄な彼に小さい自転車だったもんな。やあって現れた彼は可愛いすぎて笑った。
身体をぐうっと前後に引っ張っていくと、あっという間に白い霧は姿を消して、少しの間太陽と青い空が顔を出した。
女と山の天気は変わりやすい。
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