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黒い毛


知り合いの5歳の女の子が、一時期お母さんとお風呂に入らなくなってしまって、とはいえ小さい子だから1人で身体や頭をきれいに洗うのは難しく、お母さんは困ったらしい。そこで理由を尋ねたならば、腹の下の方を指差して、

「黒い毛が怖い」

と言ったそうだ。

その子の気持ち、分かる気がする。わたしも小さな頃、母の陰部の黒い毛が怖かった。怖かったというよりも、少し気味が悪かったのかもしれない。

毛の向こう側に、なにか不気味な吸引力があるように感じて、あまり見ないようにしていたことを覚えている。その女の子みたいに感情を伝達することができなかったので(遠慮して言えなかったというより、感覚の塊を言語化できなかったのと、口に出すことで黒い毛と関わりができるのが嫌だった)、内に秘めたままだったけれど、母が色白だったからか、余計に黒いモジャモジャが印象深く思い出に残っている。

そんな小さなわたしも、いつしか気づけば黒い毛が生え、いっぱしの女性になっていくのだけど、不思議とその頃には毛への怖れもなくなっていて、「別に毛が生えるのは自然なことだし」という一言で片付けるつまらん大人の感覚を身につけていたりする。

黒い毛が怖い!という感覚こそビビッドで、生命の根幹に繋がる力なのであろうに、人ってつくづく社会への抗体を身につけたくてたまらぬ、常識に弱い生き物なのだなあと実感したりする。


ところでわたしは身体の変化の一切が苦手だ。

身体そのものが苦手と言ってもいい。

できることなら身体に関わらないでいたい。多分それは小さな頃から「身体の一切はコントロールできないトラブルの種」だったからだと思う。

体が弱いというのがそもそもの理由だった。風邪もよくひいた。だからこそ身体の不快は全力で避けたかった。

転んで痛い思いをするのも多分人以上に不快を感じていたし、だから体育の時にありったけの力で走るというリスキーなことは絶対に避けたかった。でんぐり返しをしてクラつくのも嫌だったし、ドッヂボールで速い球が自分めがけて飛んでくるのも痛みの予兆でしかなく、何が楽しいのかさっぱり分からなかった。

それと合わせて、「体を成長させるために食べる」ということも、ほぼほぼ苦痛だった。

「身体にいいから食べなさい」「食べないと大きくならないよ」という、「食べて育つことが圧倒的善」という発想も全く理解できなかった。食べることそのものに全く興味がなかった。

身体ってなんだろう。

五感ってここまで必要か?

と思うほど、身体が運ぶ感覚の強烈さに苦労させられてきたから、とことん嫌になって、反動で無頓着になった。

もしかしたら黒い毛への畏怖のような感情を閉ざしたのも、小さい頃から身体に関わりたくないと思っていたから。。それほど深い悩みだったのかもなあ。閉ざしすぎてわからなくなっちゃってる。

でも今こうして、5歳の女の子の「女体への純粋な恐れ」みたいなものに間接的に触れていることとか、それによって揺さぶられた感情をこうしてnoteに残しているってことを考えると、そろそろ意識の変換をしましょう、と促されているのかもしれないな。

身体使わずに、ふわふわと浮かんだまま魔法で暮らしたいなんて淡い願望、持ってるんですけれどね。


梅雨が、明けましたね。


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