私にとっての仕事とお金(1)
自分の仕事について、ずっと考えている。
何のために働くのか。
働いていてどんなときが楽しいのか。
そもそも仕事は楽しいのか。
22歳で大学を卒業して以来、いつも考えていたような気がする。
あまりに考えすぎて、夫以外の人にはあまり話してこなかった。
若い頃は悩みが多く、いつも愚痴っぽくて、友人を悩ませたこともあると思う。読んでいないと思うけど、お詫びしたい。ごめんなさい。
人生には選択肢が無数にある。
どの選択だってその人にとっては正しい。他人がとやかく言うようなことではない。
最近Twitterでこんなツイートを見た。
子供の愚痴をこぼしたら、同級生に「だったら産まなければよかったのに」と言われたので、相手に「あなたの仕事なんて、いくらでも替えが効くでしょう」と言ってのけたという。なんだか貧しいやり取りに心が冷えた。どちらもどちらで、なんとも悲しい。
子供がいようがいまいが関係ない。
仕事をしようがしまいが関係ない。
どの選択だって楽しいこともあるし、辛いこともあるだろう。
私の選択について話しても、それはわたし個人のことだから誰の役にも立たないだろう。
だから自分の記録として書いてみる。
結論から言うと、いろいろなことがあったけれど、自分の選択はこれで良かったんだと今は思っている。とても苦しい時もあったけれど、過去の選択をしたおかげで今があると感じている。
わたしの選択で良かったなと思っていることは2つある。
1つ目は、システム開発の仕事についたこと。
2つ目は、1年ほど個人業務委託に転換したこと。(現在は個人業務委託ではなく、雇用されている)
今思えばどちらも、若いころは考えもしなかった選択肢だった。自分語りになって恐縮だけど、あくまで自分のための記録なので、差支えのない範囲で書いてみたい。
また私はある人に「何のために働くのですか?」と聞かれたことがある。
その時、年上である上に、客先でとても地位の高いその人に対して、私はこう言ったのだ。
「生活のためです。それ以上でも以下でもありません。」
とことん生意気だが、今もそう思っている節がある。
もちろん文字通りではない意味もある。私のプライドかもしれない。
そのことについても書いてみたい。
最初にわたしのスペック
今年50歳になる。大学上京で東京に出て、東京に就職。
大学は女子大で国際関係学科卒。入学当時は早稲田慶應をしのぐ難易度だった気がするが、今はそうでもないらしい。ただ、働く女性が多いイメージの大学だ。
大学卒業以来、都内の900人規模のSIerに28年間勤めた。
若い頃は請負契約の仕事が多かったが、35歳ぐらいからSES契約で客先に常駐することが増えた。
請負契約とSES契約合わせて、客先として関わった企業は8~9社ほど。長い企業には8年程常駐したこともある。
システムエンジニアだがプログラミング(アルゴリズム)が大の苦手。要求仕様、要件定義の上流工程と第三者検証と言われる下流工程が主戦場。客先受けは割と良い(と思う)。
2022年11月、PMO/業務コンサルとして50歳で転職。
コンピューターを見たことがほとんどなかった学生時代
私が大学を卒業したのは1995年。遥か昔だ。
その頃は一部のマニアックな人をのぞいてコンピューターを持つ、触るということは、とても珍しいことだったと思う。
在学中に最初にコンピューターを見たのは、アメリカにホームスティしたときだ。
語学留学を兼ねたホームスティでは、日本から来た学生に、英会話の講義みたいな時間が日中にある。その時の先生が、まるでサンタクロースのような、太った白いひげもじゃの名物先生だったのだが、この人が異様に顔が広いのである。
道を歩けば誰それとあいさつし会話をする。後で「知り合いなの?」と聞くと「違うよ」というような人だった。
しかしそのおかげで我々は色々と貴重な経験をさせてもらえた。
「さっき知り合った人から誘われたから行ってみよう」と、街の裁判所で民事裁判を傍聴したこともあった。
またあるときは、その人の謎のつてで、我々はコーストガード・アカデミー(米国沿岸警備隊士官学校)の中に入ることができた。
寮の中を見たり、学生たちと食事までさせてもらった。更に、たしか潜水艦か何かの実験室みたいなところまで入らせてもらえたのである。
そこに入った時、理系の大学だった男の子が「わー!!」と目を輝かせて近づいたのが、非常に大きなMacだった。その子の喜びようが強烈で、爆笑してしまったのをよく覚えている。
多分、わたしがコンピューターを見たのは、それが初めてだった。もう一人いた理系の男子によると、なかなかすごいMacだったらしい。
大学のレポートは手書き、卒論はワープロという時代だった。私もSHARPの書院を卒論で使うのがやっとだった。
次にコンピューターを見たのは、同じ大学の友達の家だった。
友達がNECの98を買ったのである。彼女が言うには、就職はシステムエンジニアを目指すというのだ。
一見とても華やかな美人でおしゃべりが得意な彼女は、人間関係を苦手と感じるところがあるという。コンピューターを相手に、なるべく人と関わりの少ない仕事につきたいというのだ。
「もう就職のことを具体的に考えていて、すげーなー」と思っていた私は、実はまったく就職のことを考えていなかった。
就職に失敗
大学の勉強は楽しかったし、それなりに温度高く取り組めていた。
ただ国際関係学科は幅が広い。興味が1つにまとまらないまま4年がたっていた。何かに特に詳しい、こだわる、ということがないのである。
漠然といろいろなことをつまみ食いして学ぶのが楽しい、もっと言うなら友達とフワフワ過ごすのが楽しい、というのが学生時代の私だったので、何の職業につくイメージも持っていなかった。
正直に告白すると、今まで進路について困ったことはなかったから、就職もまあ困ることはないだろうと、たかをくくっていたのである。
同級生たちの進路はさまざまだった。
国際機関などでバリバリ働く人は学内でもエリートと呼ばれるような人たちだという噂だったし、そもそも興味が向かない。
一般企業は総合職と一般職という区分が当たり前で、バリバリ働くタイプではないと自覚のあった私は一般職かと思ったが、一般職は自宅通勤の人しか採用されないとか、両親がそろっていないと採用されないといった噂も耳にした。(私は片親で自宅外通勤である)
そもそも自分が何が好きなのかもわからなかった。
唯一好きだったのが、本を読むことだった。
しかし「本に関わる仕事にだけはつきたくない」と、最初に決めてしまった。
出版社はとても難しいから、多分受からないだろう。そんなことが起きたら、プライドがボロボロになると思ったのだ。
また好きなことは仕事にしたくない、好きなことまで仕事にして辛くなったら、いったい私は何に逃げればいいのだろう?と思っていたのだった。そのころから私は、ストレスがたまると本の世界に逃げるところがあったから。
今思うと、「一般職は無理に違いない」「出版社は無理に違いない」「仕事は辛いに違いない」と、なんだか決めつけが多すぎる。
ネットで情報を得られた時代でもあるまいし、今より圧倒的に情報が少ない時代に、いったい何を元にそう思ったかも覚えていない。
今の私が見たら、「You、やっちゃいなよ!」と言いたくなる。
何も怖いものはないのだから、出版社だろうが、一般職だろうが、受けてみればよかったのだ。書いていて嫌になってきた。
そしてぼんやりと「身近なところで考えてみよう」と、日用品メーカーや住宅内装メーカー、旅行会社などいくつか受けたが、全部、泣かず飛ばずだった。
ある営業が厳しいと言われる食品メーカーのOBに電話したら「あなたみたいなナメた人、受からないわよ」と怒られた。よほど変なことを言ったのか。
ある企業の面接では「お父さんがいないのにどういう環境で育ったのか?」と聞かれた。今思えば余計なお世話である。「祖父が働いていて裕福なので」と答えたら苦笑された。生意気な学生だが、おっさん、そんなこと聞くなよ。
唯一最終面談まで進んだ、ある旅行会社では「わたしどもの初任給は16万ですがやっていけますか?」と聞かれた。「たしかに」。うまく答えられなかった。
就職氷河期が始まっていて、わたしの同級生も、近くの一橋大学の学生さえ、やや苦労していた。しかしさすがに夏の盛りには、誰も彼も1~2社からは内定を得ていた。
「これはマズイな」と思い始めたのは、4年生の夏頃だったと思う。
一旦地元に戻った。ある企業を1社受けたがそこも落ちた。
何もかも嫌になり、夏の間中、家でゴロゴロしていた。
やっと渋谷の会社で得た内定
しかしある日ふと、
「とりあえずいったん、大学に戻って就職課の求人見てみる」
と家族に伝えて、東京に戻った。
戻った私が就職課の掲示板で見つけたのが、今勤めている企業の求人票だった。
「あ、寮がある!」
私はそこに飛びつき、その会社を受けることにした。
今でも覚えている、渋谷の裏通り、神泉駅に降り立った時のこと。今まではCMで名前を知っている会社しか受けて来なかったので、知らない会社に逆にとても緊張したし、好奇心も湧いた。
対応する人事の人はとてもソフトで優しく、まあまあ意地の悪い質問も受けてきた私の心はとても癒された。
「何が得意ですか?」
「えっと、文章を書くのは得意です」
なぜかそう答えていた。
それまで受けた企業では、大して活動もしていない幽霊部員になっていたサークルの活動の話をしたり、そこまで熱心にやっていないバイトの話をしたりした。温度感のない話ばかりだ。面接官に刺さるはずもない。
ちなみに私のバイトで一番熱く取り組んだのは、朝日新聞本社でサザエさんの掲載年月日をひたすら年鑑で調べるバイトで、ネタ満載、かつ異様に熱心に取り組めた仕事だった。残念なことに、その後の話である。
「文章を書くのは得意です」
なぜそう言い切ったのだろう。
そしてあの瞬間が一番、就職活動中、自然で、自信のあった時だったのだ。
それまで大学のレポートだとか、英語の和訳だとか、よく文章を褒められることがあった。また「文章を書け」と言われて困った瞬間が人生で1度もなかった。根拠もなく、これは得意な事なのだと思っていた。それを就職活動で初めてスラスラと他人に答えていた。
今思えば、神泉の知らないビルの1室で、わたしは比較的リラックスして自分を出せていたのだ。
「だったら社内報を書く人がほしいから、いいですね。」
と、その場で言われたのである。
そのあと、別の部屋で他の女子学生と2人で筆記試験を受けた。もう9月に入っていたせいか、静かな筆記試験だった。
ちなみにSPIといった就職試験対策も1回もやったことがなかったので、試験結果はボロボロだったらしい。
ちなみにその会社はコンピュータ関連企業とあった。何をする企業か、よくわからないまま受けたのだった。
しばらくして内定が出た。
対応してくれた2人の人の笑顔がうれしく、わたしは内定が出てすぐ、入社を決めた。というより選択肢が他になかったのだった。もう就職活動はこりごりだったし、今のアパートは同じ大学の生徒しか居住できないので、とにかく寮があるのはありがたかったのである。
今思えば、
・自然と得意なことで採用された
・生活を中心に考えて就職を決めていた
という点で、50歳の今と大して変わっていないと、苦笑してしまう。
9月のあの時、私はここで生きていこうと決めたのだ。
それまでの私は、OBに言われたように嘗めきった学生、大人から見ると鼻もちならない学生だった。
地元では「K先生のお孫さんですね」とタクシー運転手にまで声をかけられ、勉強は比較的得意で、生きていくことやお金を得ることに困った事がなかった。コミュニケーションが下手で生きづらさも感じていたが、実家のバックアップがあれば何とかなると思っていたのだ。
あの夏、実家で「もうしばらくモラトリアムを続けて良い」と誰からも言われなかった時、「東京に戻って就職先を探すよ」と言った時、わたしの生きていくことが始まった気がする。
システムエンジニアになるまでの話が長くなりすぎた。
次回に続く。
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