ひとやすみ『農家はもっと減っていい』

 農家である鹿児島の実家を出てからも、農業問題にはずっと関心を持っている。納得がいかない感覚を抱えながら。

 最近『農家はもっと減っていい 農業の「常識」はウソだらけ 』(久松達央著、光文社新書)を読んだ。以前noteで触れた『日本のコメ問題』と並んで書評に掲載されており、この刺激的なタイトルは本当は何を言いたいのかが気になって読んでみたくなった。

 本書は、著者自身の農業新規参入者としての経験から、農業や農政の問題を指摘すると同時に、農業を目指す人へのアドバイスが展開されており、内容は相当多岐にわたる。読み進むうちに著者の熱い思いが伝わってきて、農業・農産物や農業政策についてのみならず、日本はどう進むべきか、そして人としてどう生きるかまで考えさせられた。

 著者は脱サラして農業に参入した。その著者が「農家はもっと減っていい」と主張することには、代々の土地を守ってきた両親(とくに父)を持つ身としては素直に首肯できない部分はある。しかし、では農政(国や自治体、農協)がほんとうに国の将来と農民のための政策を考えてきたのか、については、著者の主張が間違っているとも思えない。

 著者が「クレクレ農家」と揶揄する、目の前の補助金に釣られて結果的に自身の体力を弱めてきた農家のありかた。国の自給力向上に抜本的な対策を講じられないまま、農家の「クレクレ」をむしろ助長してきた政策。そして、市場経済・資本主義の中で、農業分野でもいやおうなく進む寡占化・モジュール化。「農家さん」と呼んで消費者が親しみ、支援に近い気持ちで「産品を買って応援する」行動が対極に感じられるほど、日本の近代農業の歴史と現状は苦いものに満ちている。

 大資本化・大規模化が進む農業の隙間で、著者は「反骨精神」で生き残りをかけるのだという。残された隙間に緩くつながるネットワークと、顔の見える関係で生き残れる空間はあるのか。あってほしいとわたしは願う。

 父の壮年期は、正しいはずの農協の指導にある意味振り回された時期でもあった。父はそれをほんとうに「正しい」と信じていたのだろうか。あり得ない仮定だが、もし父の壮年期に著者と接点があったら父はどう生きただろうか。そんなことも考えた。

《参考》『農家はもっと減っていい『( 久松達央、 光文社新書

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