ミヨ子さん語録「上見て暮らすな、下見て暮らせ」(補足)
昭和中~後期の鹿児島の農村。昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。たまに、ミヨ子さんの口癖や、折に触れて思い出す印象的な口ぶり、表現を「ミヨ子さん語録」として記しており、前項では「上見て暮らすな、下見て暮らせ」を取り上げた。
ミヨ子さんとのやりとりを振り返り、娘のわたしも小学校高学年くらいになると「人間には上も下もないんだよ」とミヨ子さんに意見したことを述べたが、社会人になったあと自分の中にもっと明確な「根拠」が生まれたことを思い出したので補足しておきたい。
封建時代の身分制度は統治のため人為的に作られたとされる。江戸期の「士農工商」は有名だが、その下に穢多・非人(えた・ひにん)という階級があったことは、学校であまり習わないのではないか。穢多は動物の皮を扱うなど文字通り「穢(よごれ)の多い」職業で、人為的に特定の集落に集めて地域ごとに置いたと言われる。非人は物乞いなど社会から排除された人々を指す。
これらは明治時代の「四民平等」政策により制度的には解消したが、現実にはこれらの階層(地域)に由来を持つ人々は差別と偏見を受け続けた。これを一般的に同和(部落)問題ということは知られているとおりだ。
同和問題は「寝た子(知らないままでいる人)」を起こすか、起こさないか、で対応が変わると言われる。わたしが進学した大学が所在する福岡県は「起こす」ほう、つまり問題の存在を学校教育の段階から教え、生徒や学生にも議論させるという方針だった。
一方、ミヨ子さんが生まれ育ち、結婚して子供たちを産んで育てた鹿児島県は「起こさない」ほうで、積極的には教えていなかったから、わたしは同和問題の存在自体を大学進学まで知らなかった。
が、進学先の公立大学では「同和問題論」という講義が必修で、同和問題の基本や実例を学んだ。社会人になってからも折に触れて学ぶうちに、子供の頃に見聞きしながらなんとなく腑に落ちなかったことについて、合点がいくようになった。
「同和問題の存在自体を大学進学まで知らなかった」と述べたが、同じ町民でも一部の集落に対して一種の蔑視があることは、なんとなく知っていた。その集落の住民について語るとき「〇〇」と集落名で呼ぶのが一種の蔑称であることを、子供心に気づいていたのだ。
その背景やどんな問題なのかは誰も教えてくれなかったし、学校では集落の子を差別することもなかったから、みんな普通に接していた。しかし、大人たちは何かの折に「〇〇だから」と口にすることがあった。ミヨ子さんから「〇〇とはあまり付き合わないほうがいいよ」と言われたこともあった。
大人になってから〇〇集落が被差別部落に相当することをわたしは知ったわけだが、それが差別でありじつは重大な問題であることを町民の多くは知らなかったと思う。同和問題に関する教育を受けず、結果的に情報も関心も持たなかったからだ。
ミヨ子さんを含む家族の大人や周囲の大人は、〇〇集落についてある意図を込めて語るときそれほど悪気があったわけではないと思う。昔からそういう区別があって、代々伝えられてきたとおり「あまり接触しないように」してきただけだ。だからミヨ子さんを含め当時の大人たちを責めることはできない。
ただ、知らないということはときとして残酷だし、知る機会があるのに知ろうとしないのは一種の罪だと思う。そして知らせないことはもっと大きな罪であることを、深く心に刻んでおきたい。