昭和の看病――夏風邪で思ったこと

 書き溜めてあった原稿でしのいでいるが、このところ体調が悪い。喉の痛みに始まり、鼻水、頭痛ときて、一昨日の午後から熱っぽくなってきた。夏風邪だ。

 その夜、おでこに冷却シートを貼ったら、わりとすんなり眠れたのはありがたかった。昨日の朝は体温が37.8℃まで上がっていたので、とりあえず寝ていることにした。と言っても、明るくなってくる光や周りが活動を始めた音などが気になって、熟睡というわけにはいかない。冷却シートも取り換えたが夜ほど効かない気がする。室温が高くなっているから当然か。

 うつらうつらしながら、子供の頃体調が悪かったときのことを思い出していた。

 はしか、水疱瘡、おたふく風邪……。わたしの場合、子供の頃にかかっておいたほうがいい、と言われていた伝染病には、幼稚園から小学校低学年にかけて、クラスや近所の誰かがかかったのをきっかけにうつり、数日の療養を経て悪化することもなく治った(ので抗体はできているはずだ)。もちろん病気によってはお医者にもかかった。

 それ以外で大きな病気をしたことはないが、風邪はときどきひいた。毎冬1回はひいたと思う。風邪をひくと、富山の置き薬の箱の中から煎じ薬が取り出された。真綿にくるんであるそれは、煎じ薬と言いながらもお湯を注いで飲むことも可能(だったよう)で、薬が入った大きな湯飲みに熱々のお湯が注がれ、熱いうちに全部飲むよう急かされた。

 薬を用意してくれるのはまず母親だった(大きい湯飲みと熱いお湯を使うのでまれに父親のこともあったが)。昭和の時代、家庭における「看病」という行為は、一般的に母親、そしてそれとほぼ同義語である嫁の役割だったのではないか。

 共働きというか「嫁」も日々田畑に出る農家の場合、家に病人が出るとその分「嫁」の負担は増したはずだが、誰かが家事を分担したとか、何かの手段で軽減させたという記憶はない。つまり母親にとっての負担は「純増」だったはずだ。

 だからというべきか、母親が看病してくれるのはこのうえなく特別なことだった。古い作家のエッセイか何かで「きょうだいが多かったので、病気のときは母を独占できることがうれしかった」と書いてあった記憶があるが、その感覚もよくわかる。どんなに忙しくても、金銭的にゆとりがなくても、病気の子供のために、どの母親も工夫と手間を惜しまなかったはずだ。少なくともわたしの母親はそうだった。

 病人食というとおかゆがお約束ごとだった昭和の家庭は多かったと思う。おかゆを炊くのは時間と手間がかかる。仮にすでに炊いてあるごはんをおかゆに炊き直すにしても、だ。もちろんレトルトのおかゆなどない。そもそも電子レンジすらなかった時代。

 家族の分の食事とは別に、一人分のおかゆを、小さな鍋で火加減に注意しながら炊き上げて、一人分だけ別のお膳を用意し、枕元に運び、病状によっては口に運んでやる。おかゆは病状の回復ぐあいによって、徐々に濃度が上がり、ふつうのご飯まで戻った。味噌汁も、汁だけから少しずつ具が増えていった。

 この手間が愛情に裏打ちされていないとすれば、なにに依るものだと考えればいいのだろう。

 日々の農作業で体をすり減らす傍らで、体力のない病気の子供に寄り添ってくれたそのときその時どきの母親の姿、かけてくれた声を思い出すと、胸が詰まる。

 その恩にわたしは少しでも報いたいと思ってきたが、できているとは言い難い。

 冒頭で触れた夏風邪はなんとか峠を越えつつあるようで、熱は少し下がってきたし、こうしてPCに向かう気分にもなってきた。それで、子供の頃に受けた看病について考えてみたのだが。

 noteに母・ミヨ子さんの来し方、近況などをずっと綴りながら、自分の曖昧さ、狡さ、いい加減さにも思い至るとともに、母親がどんなに偉大であった(ある)か――という表現はあまりに単純かもしれない――を、しみじみ噛みしめてもいる。

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