文字を持たなかった昭和528 野菜(1)エンドウ豆①

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 もうしばらく老境に入ってからのミヨ子について述べることにして、今度はミヨ子の野菜作りや、野菜を使った料理について書いてみようと思う。ただ、これまでのように同じテーマで連続するとは限らず、思いつきベースでぽつぽつということになるかもしれない。

 春先は豆類がおいしい季節。2月にもなると温室栽培のエンドウ豆(グリーンピース)がスーパーなどの店頭に並ぶ。1番バッターはたいてい鹿児島産だ。おそらく県内でもとくに温暖で、そこを活かした農業が盛んな指宿のものだろう。もちろんもっと南の島嶼部はもっと温暖だが、輸送や生産量の関係で首都圏にその産品が届くのは稀だ。

 エンドウ豆を見かけるとミヨ子の姿が彷彿とする。

 ミヨ子の嫁ぎ先の家(つまりわたしの実家)では、屋敷の前がそこそこの広さの畑になっていて、自家用の野菜やイモの多くはそこで作った。もちろん出荷用にたくさん作った野菜の一部を自家用にすることもしばしばだったが、朝晩のおかずや汁の実に使うために、ミヨ子はよく包丁を片手にひょいと庭先へ出て、必要な量をその場で取っていた。これ以上の鮮度はない、究極の地産地消である。

 庭先の畑の作物は季節ごとにさまざまで、春先なら必ずエンドウ豆が実っていた。もちろん勝手に実るわけではなく、野菜作りのうまいミヨ子が季節を逆算して――ただしそれが正確にいつ頃なのかは、二三四(わたし)はいまだに把握できないでいる――畑を耕して施肥し、苗を買って植え、ある程度成長したら支柱を立ててやり、必要に応じて追肥したりして育てた結果だ。

 あくまで自家用だから苗の数は10本くらいだったが、竹の枝を簡単に組んだ支柱に、蔓が伸び花が咲き実がつくようになる頃には、エンドウ豆を植えた一角は緑がわさわさと繁っていた。そこには、ときに摘むのが追い付かないほどたくさん実が成った。

 ミヨ子は台所のボウルなどを持ち、実の詰まったサヤを摘む。盛りのエンドウ豆はすぐにボウルにいっぱいになった。ただしサヤから出して実だけにすると、そのかさはずいぶん少なくなる。
「あんなにいっぱいあったのにね」
サヤから実を出す手伝いをする二三四と、ミヨ子はいつも笑いあった。

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