文字を持たなかった昭和351 キュウリ栽培へ 

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 前項などこれまで何回が触れたように、長男の和明(兄)は郷里の実家跡で趣味の家庭菜園を楽しんでいる。そこへは車で30分ほどかかるところに住んでいるので、手入れや収穫は週末中心らしいが、ちょうど夏野菜の季節とあって週1、2回では「間に合わない」ほど成長するものもあり、ときに出勤前の早朝や退勤後の夕方、水やりや収穫のためにわざわざ赴くこともあるという。
「この前は時間がなくて高速を使った」
そうで、趣味のコストとしては笑えない話もしていた。

 その中でキュウリの話題になった。
「キュウリは、10数センチぐらいから一気に大きくなるから、翌日には収穫しないと。この前、3日行かずにいたらこんなに――と手で30センチほどの長さを示し――大きくなっていた」
と話し、その場は笑いに包まれた。二三四(わたし)を除いて。

「そう。キュウリって、ほんとにどんどん大きくなるんだよね。採るのが間に合わないと、ヘチマぐらいになっちゃう」
二三四は呟きつつ、苦くて痛い思いを飲み込んだ。

 「文字を持たなかった昭和」の6月は、季節柄手作りの梅干しや梅の実のある風景について書き続けた。いちどには書けない量だったし、関連することが次々と浮かんできたからだ。

 しかし、文字を持たなかった昭和」をテーマにnoteを始め、まずミヨ子(母)を中心に1年半近く書いてきて、四季の暮しぶりなどもひととおり綴ったところで、そろそろあの時期のあの話題に移らねば、と思うと筆――キータッチ――が重くなった、というのも大きな理由だ。

 「277 ミヨ子の半生―昭和5~50年代以降」に書いたように、ミヨ子たちは昭和50年代初め頃に経営規模を拡大し、キュウリのハウス栽培を始めた。そして「ハウス内での農薬使用が原因で、のちにミヨ子は農薬アレルギーにな」った。

 ことはアレルギーだけではすまなかった。ハウスキュウリは、一家に大きく重い負担を強い、それはあとあとまで続いたのだ。一連の経緯を綴るのは、二三四にとっての暗い思春期と、のちのちまで引き摺る実家との重たい関係を見つめ直すことでもある。

 それでも、自らを表現する術を持たなかった昭和の女性とその家族の生きてきた道を書き残すために、少しずつ振り返ることにする。


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