文字を持たなかった昭和 帰省余話(2024秋 20)  もう一度わが家の跡へ

 昭和5(1930)年生まれで介護施設入所中のミヨ子さん(母)の様子を見に帰省し、郷里へ連れて行ったお話である。入所後初めて施設(グループホーム)で再会し、車椅子も車に積んでふるさとへ食堂到着が予定より遅れ昼食は順番待ちになった。やっと食事が始まるも、ミヨ子さんが食べる速さは格段に落ちており時間が押す。食後はぜひ連れて行きたかった菩提寺のお墓(納骨堂)に向かうが、車から降りてお参りしてもらう余裕はなかった。

 そんな中でも親しい親戚のお宅に予告なしで立ち寄り、ミヨ子さんに車の中から挨拶してもらったあとは、わが家があった跡に向かう。国道3号線を外れ小さな集落に入り、少し坂を上ったところが、ミヨ子さんが60年以上を暮らした家があった場所だ。

 ここは今回の帰省余話「わが家の跡」で触れたように、息子のカズアキさん(兄)が週末を中心に家庭菜園を営んでいて、建屋こそもう撤去してないものの、庭も庭より広い畑もきれいに手入れされている。振替休日のこの日、午前中から来ていたカズアキさんはまだいて、畑の草取りをしていた。

 車を停めて車椅子を降ろし――これがまた予想していたより大きく、重い――、助手席にいたミヨ子さんを移動させる。車椅子が積めるようにと車種指定して借りたこのレンタカーは床が少し高めで、脚が弱ったミヨ子さんの乗り降りとその介助には少し扱いづらい。それでも、乗せるときよりは降りるときのほうが楽だ。車椅子に移ったミヨ子さんはほっとした表情だが、介助するわれわれはもっとほっとする。

 ミヨ子さんは車椅子から柿の木を見上げている。11月初め、枝先の柿の実はちょうど色づいている。「あれは何?」唐突にカズアキさんが尋ねると、ミヨ子さんはちょっと言葉に詰まった。わかっているのに言葉が浮かばないのだろう。「柿だろ」とカズアキさんが畳みかける。「そうだわね」とミヨ子さん。もう少しやさしく言ってあげればいいのに。

 この柿は渋柿だ。木は、わたしがミヨ子さんと何十個も皮を剥いて干し柿をこしらえていた頃よりずっと高くなった。ミヨ子さんがカズアキさん家族と同居していた間――つい4か月ちょっと前まで――は、カズアキさんが持って帰った柿の実をお嫁さん(義姉)が干し柿にしてミヨ子さんにも食べさせていたようだが、そんな機会はもうないだろう。枝先の赤い実を見て、わたしは切なくなる。ミヨ子さんは、何を思うのだろう。

 家が建っていた場所には、新たに造った農具小屋以外は10本ほどの果樹が、間隔を開けて植わっているだけだ。わたしは車椅子を進めた。「ここは家があった場所だね」「この辺は納屋だったかな」と呟きながら。家の正面、細長い庭を挟み、石段を組んで80センチほど上がったところが畑だった。畑はカズアキさんのおかげで以前の景色を取り戻している。車椅子のミヨ子さんからでも、畑の作物が見えるだろう。

 ただ、この夏の猛暑と台風のせいで、夏の野菜と秋植えの作物はかなりダメージを受けたようで、あまり育っていない。それでも畑とその周囲の緑を目にしてミヨ子さんはくつろいでいるように見えた。何と言ってもここは「わが家」なのだから。

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