文字を持たなかった昭和353 ハウスキュウリ(2)当時の状況――労働力 

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 前項から、昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリについて書き始めたが、きっかけのひとつというか背景になった、「家」がおかれていた状況を振り返ってみる。

 ハウスキュウリに取り掛かったのは昭和52(1977)年だった。

 夫の二夫(つぎお。父)は49歳、ミヨ子は47歳。いまの感覚だとまだまだ働き盛りだが、当時の農村なら、子供が独立したり後を継いだりしていてもおかしくはない年齢ではあった。

 一方の子供たちはまだ就学中で、長男の和明(兄)は県立高校の3年生、二つ違いで3学年下の長女の二三四(わたし)は高校受験を控えていた。

 上の世代、舅の吉太郎(祖母)は昭和45(1970)年に他界していた。姑のハル(祖母)は存命ではあったが、80歳をとうに超えて、この頃には認知機能の低下が目立つようになっていた。当時の農村のこと、親を家で最期まで看るのは当たり前で、介護はミヨ子、そして受験を控えた二三四も担っていた。介護については一口で語りきれないあれこれがあったが、テーマを改めて書くことにする。

 つまり、この時点で農業に振り向けられる労働力としては夫婦二人、それに大人に近づきつつある子供が週末や、状況によっては放課後に手伝って補充するぐらいだった。もちろん、ほんとうの繁忙期なら、ほかの農作業同様近所の農家や主婦にお願いするのだが、この頃には農家の兼業と主婦のパート勤めがかなり進み、昼間よその田畑を手伝ってくれるような知り合いは、だんだん限られつつあった。

 当時を振り返ってみて改めて気づいたのだが、和明が高校卒業後地元で就職し兼業の形で家の農業を手伝うことを二夫は期待、というより既定路線として織り込んでいたのではないだろうか。そうでなければ、50歳手前になってから、一定程度の規模の新たな設備投資をして新しい作物を作るなど、極論すれば無謀だった。ただしこれは結果論でもある。

 ついでに言えば、ハルの介護に手を取られる分労働力が削がれるはずだという「計算」も軽視、あるいは無視していたと思われる。家庭内のことは、どんな状況でも嫁、つまりミヨ子が担い、仕切るのが当然だったから。

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