文字を持たなかった昭和371 ハウスキュウリ(20)ハルの死
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。
このところは昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリを取り上げており、労働力としての当時の家族構成から、苗の植えつけ、手入れ、収穫の様子などについて述べた。そしてハウスキュウリ時代の最も残念な事態である収穫が間に合わなくなってきた状況や、ヘチマほどにも大きくなったキュウリを夜遅くまで選別していた光景も書いた。
そんな最中、姑のハル(祖母)が亡くなった。
「部活」で触れたようにハルはそれまで半年ほど臥せっていたのだが、5月の下旬、いつも寝ていた布団の上で息を引き取った。88歳、当時ではかなり長寿なほうだった。
人ひとりが亡くなって送るには、手続から葬儀など、かなりの時間と労力がかかる。ハルが亡くなったあとの「いろいろ」を、二三四(わたし)はあまり鮮明に覚えていない。昭和45(1970)年に舅の吉太郎(祖父)が亡くなったときは、親戚や近所の人が葬儀を取り仕切ってくれ、埋葬は近所の青壮年が墓地まで柩を担いで土葬した。だがハルが亡くなった頃には、鹿児島の小さな農村でも葬儀屋に手配を頼み、料理も仕出しの弁当を取るようになっていたし、墓地に葬る前には火葬するようになってもいた。つまり、手間はかからなくなっていたかもしれないが、出費は増えたはずだ。
二夫(つぎお。父)は、のちにミヨ子が「いまの言葉で言えばマザコンだったね」と言ったほど――そこには妻としての多少の嫉妬があったかもしれない――母親を大切にしていたから〈166〉、ハルを亡くしたことはまず精神的に堪えただろう。弔いの一切も、考え得る限り丁重に行ったはずだ。
葬儀のあともすぐには農作業に移れなかっただろうが、合間を見てビニールハウスに通ったのか。あるいは、落ち着くまで近所の誰かに作業を代わってもらったのか。二三四はもう高1になっていたのに、祖母の葬儀や、その頃の家業に関する記憶がほとんどないのがもどかしいし不思議でもある。
とにかく、ただでさえ追い立てられるキュウリの収穫は、家族が亡くなったからと言って待ってはくれない。その分のツケ――作業的にも、金銭的にも――は、あとからどんとのしかかってきたであろうことは、容易に想像がつく。
ただ、不謹慎の誹りを承知で言えば、ハルの介護に家族がかけていた分の労力を、農作業に回せるようになったことはたしかだった。葬儀のあと諸々落ち着いてきた頃には、ハルの着物やわずかな日用品の片づけをするくらいで――明治生まれの農村の女性らしく、財産めいたものや本などはない、シンプルな身の回りだった――、農作業中心に生活が回っていくようになっていた。
〈166〉二夫の生い立ちなど来し方については、ミヨ子同様のものをいつか書くつもりでいる。