文字を持たなかった昭和397 介護(16) 姑⑩ある日のできごと
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。
最近はミヨ子が嫁として仕え最期を看取った舅と姑の介護の様子を、「介護」というタイトルで書きつつある。 昭和40~50年代のできごとである。介護という概念すらなかった当時の状況(①、②)に始まり、舅・吉太郎(祖父)のお世話(①、②)に続いて、姑・ハル(祖母)について書いている。当初はぼんやりしたり、(本人には意図があるが)「徘徊」したりする程度だったが、やがて足腰が弱りほとんど寝たままの状態になった。
排泄にはミヨ子手縫いの布おむつを当てたが、鬱陶しいのだろうか、ハルが自分で外してしまうことがときどきあるのには困った。着古して生地が多少柔らかくなっているとはいえ、もとは着物をほどいた布である。市販の赤ちゃん用布おむつのような柔らかい肌ざわりにはほど遠い。まして、いまなら当たり前の大人用紙おむつの快適さなど望むべくもない時代のこと、腰回りに何枚も布を当てられ、ハルがさぞや不快だったことは想像に難くない。
おむつを外してしまうのが「小」だけのあとならまだいい。大変なのは、「大」のあとのおむつを外してしまったときだった。
二三四(わたし)は中学3年の冬を迎えていた。ガリガリ勉強をしていたわけでもないがいちおう受験生としての準備を続けていたある日の帰宅後、いつものようにハルの様子を見ようと納戸のドアを開けて絶句した。
ハルが「大」をしたおむつを外して、布団から這い出ているのだ。畳にも排泄物がくっついて、大変なありさまである。
まず窓を開けて臭気を逃がす。ふとんを汚れていない場所まで移す。ハルの体を拭き、おむつを当てなおして寝かす。それから畳の汚れを拭く。ちり紙で排泄物を拭ってトイレに捨ててから(汲み取り式だった)、雑巾で何回も拭いた。掃除用の洗剤は使っていなかったから、洗濯洗剤を溶いて拭き、さらに水拭きした。
持って行き場のない感情で、動作も言葉も粗くなる。ハルの体を動かし、拭くときも、つい力が入った。何も意識できてないハルが
「ああ、痛いよう。何するの*」
と(鹿児島弁の言い方で)上げた声とそのときの自分の胸の痛みを、二三四は生涯忘れられないだろう。
汚れたおむつは、昔台所があった風呂の焚口に置いたタライで洗った。ふだんからおむつとふつうの洗濯ものとは分けて洗っていたが、「大」のついたおむつは、洗濯機から流れる水を再利用して先に水洗いしていたのだ。洗濯機経由でタライに水をざぶざぶ流しながら、二三四は泣いていた。
一種の情けなさ、受験生の自分が「こんなこと」に時間を取られる不条理、同じ子供でも男の子である兄はいっさい「お世話」に関らなくてすむ不公平、それでもおばあちゃんをほっておくわけにはいかないという責任感、なのについ粗い動作ときつい言葉で当たってしまったことへの後悔がないまぜになり、声を出さずに泣いた。
*鹿児島弁「あらよー、痛かが。何(な)よすいけねー」