文字を持たなかった昭和 二百十七(ミカンの収穫、その一)
母ミヨ子の昭和の話に戻る。昭和30~40年代、働き盛りだったミヨ子や夫の二夫(つぎお)はミカンも栽培していた。
ミカン山は結婚後に開墾したもので、開墾作業が大変だったことについてはすでに書いた(「開墾1」、「開墾2」)。それが最初の子供を亡くす原因になったことも。大きな犠牲を払ったミカン山は段々畑状態で日当たりもよく、晩秋の頃には黄色いきれいな実をたくさん実らせた。
もちろん、成った分は摘んで出荷しなければ育てた意味がない。農家の仕事はすべからくそうだが、作物たちは「待ってくれない」。ミカンも、樹や枝で多少の差はあっても、実が成る時期は集中した。だから、ミカンが色づき始めるとミヨ子たちは収穫に追われた。
収穫はすべて手作業である。肩から収穫用の大きな袋をたすき掛けにする。利き手――ほとんど右手――にはミカン鋏と呼んでいた専用の鋏を持ち、もう一方の手で実を持って、枝から切り離す。摘んだ実は袋に入れていく。
摘みやすい位置にある実ばかりでなく、樹の下のほうやうんと上のほう、枝の奥にもある。まだ摘めない実や、傷が入った実もある。ひとつひとつの実の状態を見極めながらできるだけ速く摘んでいくのには、やはり練度が求められた。
樹の上のほうの枝や実は、二夫が摘むことが多かった。逆に樹の下の方はミヨ子や、すでに腰が曲がっていた舅の吉太郎や姑のハルが摘んだ。子供たちが小学校に上がる頃には、休みの日に手伝うことも増えた。つまり一家総出である。ミカンひとつひとつは重くないので、要領さえ覚えさせれば、摘み取りは子供たち自身にある程度任せても大丈夫だった。
天候を見極め、集中して収穫したいときは、田植えや稲刈同様に親戚や近所の人に手伝ってもらうこともあった。近所の農家すべてがミカン山を持っているわけでもなかったので、田植えや稲刈りより手伝いを頼みやすいのは助かった。