文字を持たなかった昭和 帰省余話24~戸籍(続き)
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。
このところは、そのミヨ子さんに会うべく先月帰省した折りのできごとを「帰省余話」として書いてきた。前項では帰省期間中に自分につながる家系の戸籍(除籍謄本)を入手し、それらの仔細を見たときの感慨の一部に触れた。本項はその続きである。
前項で書いたように、両方の親の祖父母のうち3家系までは同じ町内(旧。合併によりいまは市内)にあるので、それぞれの明治までの家系、家族関係はかなり判明した。自分の中でぼんやりと「じいちゃんのきょうだい」などと理解していた人が、正確にはどういう続柄か、自分はその人とどうつながっているのか、などがはっきり確認できたのはありがたいことだった。
一方、ミヨ子さんの母、つまり母方の祖母であるハツノさんの家系はよくわからない。ハツノさんは熊本から「お嫁にきた」こと、弟が広島の呉市にいてわが家にも年賀状が来ていたことぐらいしか、子供のわたしは知らなかった。大人になってからもその家系まで辿ろうと思ったことはなかった。
今回手に入れた戸籍では、母方の祖父である直次さんと結婚したところで、初めてハツノさんは登場する。そこには元の戸籍の一部が書かれており、熊本県人吉地方の村の名前があった。
そう言えば。ミヨ子さんにとって叔父さんである呉在住の弟を、ミヨ子さんは「人吉のおじさん」と呼んでいたことを、戸籍を眺めていて俄かに思い出した。子供のこととて、呉と人吉の位置関係を分かっておらず、呉が広島で人吉は熊本だと知ってからも、母親の半分のルーツである人吉について深く考えることもなかった。
令和2(2020)年7月の豪雨では熊本南部を中心に広範囲に被害があったが、人吉地方も甚大な被害を受けた。そのときでさえ、人吉については球磨川が蛇行する山深いところという認識はあっても、そこと自分との関連性に思いを致して来なかった。
たまたま、残り3/4のルーツが同じ町内の、これまた同じか近くの集落だったために、自分のルーツは「そこ」で、自分は純粋な鹿児島人であることに微塵の疑いもなかったが、そうではなかった。しかし、戸籍に記載された具体的な地名や、元の戸籍の戸主の名前、続柄などを眺めていて、人吉が急速に近づいてきた。簡単にいうと、わたしの1/4はここで出来たのだ。
最近報道や情報番組などに気をつけていると、人吉と鹿児島の北部は接していること、歴史的にこの地域はそのときどきの勢力に部分的に組み込まれたり離れたりしてきたこと、などを(いまさらながら)知った。
残念ながら、先の水害の影響で人吉地方への公共交通はまだ完全には復旧していないようだ。復旧を待つかどうかはともかく、できればミヨ子さんが元気なうちに、わたしの1/4のルーツがどんな所なのかも確かめに行きたいと思う。そしてミヨ子さんに、写真とともに「ばあちゃんが生まれたのはこんなところだよ」と教えてあげたい。