文字を持たなかった昭和 百五十一(体罰)

 「百五十( BCG接種)」《URL199》で、「(母)ミヨ子は自分の考えが及ぶ限り、(娘の)二三四の身体に傷だけはつけないよう気をつけて育てた」と書いた。では、家庭におけるいわゆる体罰はどうだったか。

 この項を書いている本日現在、たとえ親などの保護者であっても体罰は罪に問われる法制度になっている。というか、そのように変わった〈112〉。

 しかしミヨ子たちが子育て真っ最中だった昭和40年代を含む「昭和」の頃、そしてそれ以前は言うまでもなく、子育てや学校教育における体罰はいわゆる「愛の鞭」として許容されていた。むしろ、「子供は理屈だけではだめ、叩かないとわからない」「先生、うちの子が言うことを聞かないときは叩いてください」という言い方が、当たり前のようになされていた。

 いまは当然とされている子供が納得いくように諭す、親子で話し合う、という教育のしかたがほんとうにいいのか、わたし自身は判断がつきかねるが、それは置いておくとして。

 ミヨ子一家が暮らしていた鹿児島の農村において、「子供が悪いことをしたとき、言うことを聞かないとき、叩く」というのはごくふつうの躾だった。ミヨ子たちが子育てする世代になった戦後の高度経済成長期、子供の数は夫婦1組に2~3人、4人もいれば多い方で、一人っ子も少なくない、という構成になりつつあった頃だ。

 そして、ミヨ子たち自身はたくさんのきょうだいと競いながら育った。当時の親たちの教育水準はそれほど高くなく――というより、地域によっては水準が明確に低い親も少なくなかった――、子供に理屈で諭すより、「いい」「悪い」をはっきりさせ、悪いことは叩いて教えるのが当たり前だった。親たち自身がそうやって躾けられたのだから。

 ミヨ子の夫・二夫(つぎお)の両親、つまりわたしの祖父母も学校にはあまり通わなかったクチである。祖父母の名誉のため付け加えると、当時――明治の前半から半ば――のこの地域では、ほとんど学校に行っていない、経済的に通えない子供がたくさんいたから、とりたてて珍しいわけでもなかった。

 だから、ミヨ子にとっての舅・吉太郎は、子供がなにかしでかすとキセルを振り上げて叩こうとした。実際、上の男の子・和明は、キセルで叩かれることもあった。手が悪いことをすれば手を、脚の行儀が悪ければ足を。

 ただ、下の女の子の二三四には、吉太郎も遠慮していた。遠慮というより、おそらく小さな女の子と生活した経験があまりなく、女の子に対してどう接していいかわからなかったのだと思う。昭和45年頃まではまだあった囲炉裏に向かって、幼稚園に上がるくらいの二三四が足を投げ出して座っていると、吉太郎は「行儀が悪い」とキセルを振り上げた。

 が、振り上げた手を震わせて歯ぎしりはするものの、それを打ち下ろすことはなかった。その光景を後年振り返るたび、ミヨ子は
「吉太(きった)じいさんは厳しかったけど、女の子には少しだけやさしかったよね」
と呟いた。

 二夫はもっとやさしく、跡継ぎとして期待していた和明に対してはともかく、二三四に対して手を上げることは一度もなかった。なにかにつけいつも厳しくて、子供たちにとっては怖い、ある意味鬱陶しい存在ではあったが。

 ミヨ子はもっと穏やかだった。子供の目にも、夫や舅姑にひたすら従順で、自分を持たない人物のように見えるほど。

〈112〉親などによる体罰の禁止を盛り込んだ改正児童虐待防止法と改正児童福祉法が、2022年4月に施行。

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