文字を持たなかった昭和 二百九(香典返し)
身内に不幸があった。
1日の夜に亡くなったと翌2日の朝連絡があり、早速通夜か? と物心の準備をしていたら、ご遺族と葬儀社やお寺の話し合いで、5日(土)通夜、6日(日)告別式にした、と連絡を受けた。ご遺体はお寺の霊安室でお休みだとか。
正直なところその時点ですでに「生きている人の都合で、仏さまをそんなに待たすの?」という気持ちだったが、わたしが口を挟むことではないし、そのつもりで支度を進めていた。ちょうど週末だから参列者の都合も考えたのだろう、とも。
ところが、3日にまた連絡があり、ご遺族の一人の都合で、通夜と告別式を1日ずつ後ろにずらすという。告別式は7日(月)の午後になり、近年では当たり前になった初七日の法要まで当日済ませるとなると、夜までかかる。新幹線で行く場所なので当日帰れないことはないが、厳しい。
7日に入れてあった用事は当然キャンセルだ。2日の次点で日程が確定されていれば、平日のうちにあちこち連絡できたのに、と恨み言を言いたくなる。何より、人の生き死にに関わることは、いま生きている人の都合に優先するのではないの? と、日程をあっちへこっちへと移す行為に、不思議な気持ちになる。つまり「理解できない」。
そんなわけで、待ちぼうけを食わされた気分のまま待機状態が続いている。
で、タイトルの「香典返し」。不祝儀があると思い出すのは、昭和の後半の鹿児島の農村(わたしの郷里)での習慣である。
親戚や近隣の誰かが亡くなると、通夜や告別式の際当然お香典を包んだ。参列者には、お礼のご挨拶とごく簡素な品物が渡された。そして数日後、町内全域をカバーする有線ラジオ――いまでいう防災放送――を使った朝夕の「町(ちょう)からのお知らせ」で、こんな報告が流れるのだった。
「〇〇集落の〇〇さんが〇月〇日に逝去されました。ご遺族より香典返しとして、町社会福祉協議会へご寄付をいただきました。ここにお知らせしご冥福をお祈りいたします」
なるほど、参列者一人ひとりに香典返しするのではなく、故人を生前支えていただいた感謝を寄付という形で広く社会に還元するのだな。そこまで整理して考えたわけではないが、子供だったわたしは毎回納得して放送を聞いた。ともすれば華美になりがちな冠婚葬祭の習慣のひとつに、合理的な歯止めがなされているのは、好ましいとも感じていた。
しかし、いつの頃からか――進学後か就職後か――帰省して町内放送を聞いたとき、「香典返し」についての報告がなくなっていることに気付いた。たまたま実家で目にした「香典返し」も、葬儀社が準備した立派なものに変わっていた。日本の経済が上向きで、冠婚葬祭は拡大一方だった頃のことである。
バブル崩壊を経て長い低成長期に入った日本では、冠婚葬祭も縮み傾向、結婚式は「地味婚」が話題になり、葬儀は家族葬が増えていった。そこへ新型コロナが拍車をかけ、およその「儀式」は可能な限り簡素になっている。が、主目的は低廉、節約のようにも見える。
郷里の町も、「社会福祉協議会への寄付」による香典返しを復活すればいいのに。おっと、「平成の大合併」で郷里の「町」はなくなったのだった。