文字を持たなかった昭和384 介護(3)舅①
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。
ミヨ子が「嫁」として仕え最期を看取った舅と姑の、亡くなる前の介護の様子を記しておくことにして、「介護」というタイトルで書き始めた。 昭和40~50年代のことである。
「当時の状況①」では、当時介護という概念はなく「お年寄りのお世話」であったこと、「お世話」は基本的に家庭内でするもので、多くは「嫁」を中心とする女性の役割であったことなどを述べた。「当時の状況②」では、家を中心とする家族の役割、そこで女性とくに嫁に求められるものが大きかったことに触れた。(わたしは「家を中心とする家族の役割」を全面的に否定するものではない)
さて、舅・吉太郎(祖父)の介護である。
働き者の吉太郎は一代で田畑や山林、屋敷を買い広げた。その最期については「二百十六(吉太郎の命日)」で述べている。
亡くなったのは昭和45(1970)年の11月18日。吉太郎はその2週間前くらいから寝込んでいた。一度床に臥せるとなかなか起き上がれない。食事は、まだ元気だった姑のハル(祖母)が、枕元におかゆやみそ汁、ほぐして食べやすくした焼き魚など運んで食べさせた。
お茶や水は吸い口を使って飲ませた。お小水には尿瓶(しびん)を使い、その都度外の厠に運んでいた。「大」のほうはどう始末していたのか、当時小学2年生だった二三四(わたし)の記憶にはない。
そういった直接の「お世話」をハルがするので、嫁のミヨ子は古い着物をほどいておむつを縫ったり、汚れたおむつを洗濯したり、体を拭いてあげたり、おかゆを炊いたりといった周辺のお世話のようなことをやっていた。それでもハルが畑に出ているときなどは、ハルに代わって吉太郎のお世話をすることはあった。
お医者も呼んだが、「疲れでしょう。栄養のあるものを食べさせて」というぐらいだった。
そんな日々が続いたとある宵の口、吉太郎は永眠した。92歳、当時としては信じられないほどの長命、大往生だった。
ピンピンコロリとまではいかないが、長期に寝込むことはなく頭もはっきりした状態で、「起きてこないみたいだけど」という状況で初めて家族が大騒ぎになったという、まさに眠るような最期だった。